前回からの続きです。
ちなみにこの山本山シリーズの考察は、かつて「山本山」銘柄の宇治茶を生産していた山本村が、現在の京田辺市の三木山あたりにあった山本村だった。という前提で成り立っています。特に今回の#2はそうです。「山本」が非常にありふれた地名であることから、私の見当が全く違っている可能性もありますので、その点を考慮に入れてくださった上で読んでいただけると、嬉しい限りです。
出せば売れる。問題はどれだけ並べられるのか。
さて、嘉兵衛が江戸の日本橋にオープンした鍵屋では、山本村から続々と宇治茶が運ばれ、次々と蔵に積み上げられました。天下の台所で天下の宇治茶を売るわけです。買い手はいくらでもいます。もちろん販促もしたでしょうし、鍵屋はどちらかと言えばマス・マーケティング的なものが得意だったような印象を私は持っているのですが、実際は、適切なタイミングで品揃えを切らさないように商品を並べられるのか、というサプライチェーンのリスク管理に店の命運がかかっていた。と言っていいと思います。

静岡がお茶の一大産地になるのは明治に入ってからの話ですが、駿河など関東に近いところでも一応お茶は栽培されていました。ただし、京(関西)から運ばれる物が「下り物」と有り難がられ、それ以外が「下らない物」と蔑まれた時代です。天下の宇治茶は江戸の消費者にとっては垂涎の的でした。つまり販促などしなくても「山本山」は「出せば売れる」商品だったわけです。
茶壺
ただ、当時のお茶は茶壺に入れられてました。ですから、今からはちょっと想像がつきにくいのですが、お茶は大変な重量物でした。しかも「水ぬれ注意」の「天地無用」の「ワレモノ注意」だったわけで、この茶壺が茶の流通のネックだったことは間違いないでしょう。だからこそ「ずいずいずっころばし」の詞に「茶壺に追われて戸をピンシャン、抜けたらドンドコしょ」などと謡われるわけです。慎重かつ大げさに陸路で運ばれていた徳川将軍家御用の茶壺輸送隊、「お茶壺道中」の一行に遭遇したら、地元民は家に隠れて戸を閉めて鳴りを潜め、過ぎ去ったらヤレヤレと胸を撫で下ろして喜んだわけです。

デカい、重い、業務用の茶壺。
つまりお茶の陸上輸送は大変でした。将軍や大名に卸す「御茶壺」程度の量なら、軽くて固い磁器や、釉薬で防水された舶来物の薄手の陶器なんかも使われたでしょう。ですから人力が基本の陸送も可能でした。ですが、宇治の産地から江戸の店舗に納品する場合はできるだけ沢山送りたい。だから立杭焼(丹波焼)や信楽焼、備前焼のような、シンプルな素焼きで肉厚の大壺にギッチリ茶葉を詰めて運んでいたはずです。きっととんでもない重量だったことでしょう。しかし何にせよ、船で運ぶ意外にこれを運搬する手立てはなかったはずです。

PC山本村
さて、宇治茶「山本山」を製造する山本村では、おそらく製茶の最終工程、すなわち、周辺の茶園から集めた荒茶から茶葉以外のゴミや固い新芽以外の葉を取り除いたり、残った新芽の茶葉を葉身、葉の茎、葉の壊れた粉などに分別したり、茶園や生育場所、茶の木の個性によって風味が微妙に異なる茶葉を調合することで「山本山」の味に整える、最終的なブレンドが行われていたと思われます。そして山本村は木津川の畔にあった村ですから、製品となったお茶のパッケージング(壺詰め)と出荷(船積み)の作業、そして出荷までの保管(蔵積み)もそこでされていたと考えられます。つまり山本村は、今の三木山からはちょっと想像がつかないかもしれませんが、現代風に例えるなら、お弁当や惣菜を製造出荷するプロセスセンター(PC)のような場所だったと思われます。

そして鍵屋のある日本橋は江戸屈指の港湾ターミナルで、水揚げと入庫が同時にできますから、リードタイムの面でも在庫管理の面でも、他の町の茶商と比べて流通上のアドバンテージを鍵屋は持っていたと思われます。

山本山サプライチェーン
当時のお茶の出荷風景を妄想してみます。
新茶の出荷シーズン。山本村の倉庫から巨大な茶壺が次々と担ぎ出され、船着き場の高瀬舟に積まれます。喫水の浅い高瀬舟ですから一艘には幾つも壺を積めなかったはずで、時には何艘かが連なって木津川を下ったのかもしれません。川はやがて淀川に合流して広がり、船は大阪に至ります。すると、大阪と江戸を結ぶ海運網は、菱垣廻船、尾州廻船、浦廻船など、大変に充実していました。今で言えばクロネコヤマト、佐川急便、日本郵政が積荷を取り合っていたわけです。そしてどの廻船に積み替えても、それらの終着点は必ず江戸であり、どの廻船も江戸に着くと佃島のあたりで茶船(高瀬舟よりさらに小さい十石積みの川船)に瀬取り(積み替え)をして日本橋界隈まで運び、桟橋や岸壁(物揚場)で荷下ろしをしました。そこで茶壺を受け取り大八車を数間も曳けば、そこはもう鍵屋でした。

江戸で成功するファクター
鍵屋が成功した最大の要因は、おそらくこの流通のアドバンテージだったのでしょう。赤穂の塩、灘の酒、京の西陣織、堺の白粉、紀伊田辺の梅干し、「下り物」として持て囃されたこれらの品々にも、こういった視点で考えてみれば、廻船の寄港地までのアクセスに恵まれているという共通の特徴がありました。宇治の茶もその一つで、その中でも加工から積出までをコンパクトにまとめれた山本村はさらに恵まれた条件にあったということでしょう。宇治の新茶が出回る季節になると、新しいもの好きの江戸っ子たちはきっと、真っ先に鍵屋の店先に入荷を知らせる「新茶」の幟旗が立つのを知っていて、今か今かとそのタイミングを心待ちにしていたのかもしれません。

いや、ひょっとすると、「初もの好き」という江戸っ子気質自体が、案外、江戸の市場で鎬を削る商人たちが先行者利益(FMA)で甘い汁を吸えるだけ吸おうと、マーケティング戦略として作り上げた「商業文化」だったのかもしれません。
商売の基本、タイム・イズ・マネー。
こう考えると、ライバルに打ち勝つ上で流通はほんとに大事です。仮に競合他社とそれ以外の条件が全く同じだった場合、その供給能力だけで売上高が大きく変わります。当然利益にも大きな差がつくので、規模の拡大や品質の向上のために再投資できたり、メディア戦略を立てたりロビイングなんかもできます。スケールメリットによって選択できる成長戦略の自由度が変わるので、次第に競争力の差は歴然となります。そして負者には市場の淘汰が待っています。

お茶もかつては栂尾茶のネームバリューが突出していました。栂尾茶こそが至高とされていて、栂尾茶だけが「本茶(本物のお茶)」とされ羨望を集めていました。しかし、元々「非茶」の一つに過ぎなかった宇治茶が上記の理由で台頭した結果、江戸初期には宇治茶は栂尾茶と並び称され、最高の茶であるという評価を得るまでに成長していました。そして江戸で大衆がお茶を求めはじめるにつれて、その勝敗は決定的となり、やがて栂尾茶は歴史の舞台から退場するのです。
山本山のお茶と言えば「煎茶」。そして山本山の煎茶の代名詞と言えば「天下一」と「玉露」。江戸から受け継がれる伝統の味。
参考文献
橋本素子「日本茶の歴史」
桑原秀樹「お抹茶のすべて」

参考サイト
山本山、Wikipedia、コトバンク、江戸川区郷土資料室 解説シートNo.3-6 舟運、ミツカン水の文化センター 機関誌『水の文化』25号 舟運モード、刀剣ワールド Web日本史辞典 菱垣廻船・樽廻船、葛飾北斎 「富嶽三十六景」解説付き 江戸日本橋、など。
画像、動画元サイト
山本山、Wikimedia Commons、国立国会図書館デジタルコレクション 江戸名所図会 7巻[1-35]、photoAC、Official YouTube Channel of the flutist James Strauss 、京田辺市 三山木ミュージアム~文化によるまちづくりの可能性~、など。
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