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山本山#3 運命のタッグ結成

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前回からの続きです。

宇治の山本村による江戸の直売店舗のような雰囲気から始まった鍵屋(茶問屋山本)ですが、紆余曲折を経ながら次第に日本橋の大店おおだなへと成長を遂げていきます。

運命の足音(徒歩)。

社名の由来であり、創業時から永々と続くブランド、合組「山本山」。

飛び込み営業に来た庄屋。

開業から50年ほどが経ち、「山本山」の名がすっかり日本橋のお馴染みとなっていた頃、鍵屋に転機が訪れます。初老の庄屋が、自分の村の茶を販売して貰えないか?と訪問営業に来たのです。この庄屋は永谷宗円(永谷宗七郎)という人物で、彼は宇治田原の湯屋谷という山深い村落から約500kmを茶を携えて歩いて鍵屋に来たと言われています。

日本式煎茶製法を考案した永谷宗円。日本茶界のティム・バーナーズ=リー。(画像引用元:永谷園HP、永谷園の舞台裏

湯屋があった谷の庄屋。

とんでもない健脚なんですが、それもそのはずで、彼が庄屋をしていた湯屋谷という村は、山本村から木津川を渡り、東の信楽に向かって山中を登り始めた街道沿いにある、歯抜けた数珠のように家々が連なっただけの、村とも呼べないほどの小さな集落でした。

人々は平地のないこの村で林業を営みつつ、わずかな緩斜面に棚田や畑をこしらえて細々と食い繋いで生活していたのですが、焼き鳥の竹串のごとく村を貫く田原たばる川は、毎年のように鉄砲水が出て流路が変わるような暴れ川で、そのたびに彼は村の復興を指揮し、土地割りを評定するなど、庄屋の仕事は多忙を極めました。坂しかない村中を駆けずり回る日々を過ごしていた彼にとって、江戸までの500kmなど、大した距離ではなかったのかもしれません。

湯屋谷を貫く田原川。湯屋谷ではほとんどの場所で川と街道と家屋はもっともっとギュウギュウにくっ付いている。現在では川の流路のほとんどは暗渠化されていて、車両の通行も可能となっている。

願掛けもして万全。

彼は「神君伊賀越え」で家康が逃げ帰った信楽街道を歩いて江戸を目指しました。何なら彼はただ歩いただけではなく、途中で富士の山頂に立ち寄って大願成就のお参りまでしたと伝えられています。この永谷宗円という体力オバケが持ち込んだお茶こそ、私達が現在「日本茶」と呼ぶ、緑色の鮮やかな飲料のルーツとなるお茶、「青製あおせい」でした。

江戸時代はパックツアーが盛んだったが、中でも富士もうでは常にトップの人気を誇った。画中の登山者は山頂付近の石室で身を寄せながらおそらく御来光を待っている。(葛飾北斎《冨嶽三十六景 諸人登山》東京富士美術館蔵「東京富士美術館収蔵品データベース」収録(https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/06264/))

飛び込み営業マンは胡散臭い。

宗円が江戸で鍵屋に売り込みに入ったのは、鍵屋がその当時、日本橋の有名店にまで成長していたためなのかどうかわかりませんが、実は宗円は先に他の茶問屋を何件も回ったが相手にされなかったと言われています。仮にブラウン管テレビを売っている量販店に有機ELが持ち込まれて果たして飛びつかないバイヤーがいるのか?とも思うのですが、これは後講釈的な言いようで、実際のビジネスシーンでは、結果を見れば子供でも分かりそうなチャンスでさえ、実際にそれを掴むことは難しいものです。それに飛び込み営業自体が成功率は5%未満と言われるくらい成果が上がらない手法ですから、宗円も富士山で願掛けをする間があるならアポを取るなりDMを出すなりして茶商に事前にアプローチすべきだったかもしれません。

有田焼の湯呑みに注がれた宇治の煎茶。この絶妙な透明感を持つ淡黄掛かった薄緑色こそ元祖宇治茶。(Difference engine, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

アウトバウンドの狙い目は、たぶん創業オーナー。

いずれにせよこの突如舞い込んだ幸運を鍵屋はガッチリ掴み取り、嘉兵衛は宗円と独占販売契約を交わしました。この釣り針に魚が飛びつくような嘉兵衛の素早さと大胆さを考えると、当時の「山本山」はそれほど圧倒的なブランド力を持っておらず、さらに宇治茶の人気自体も他の産地に比べて大差ない程度だったのかもしれません。

しかし仮に、その頃の鍵屋が経営的に不安定な時期だったとしても、嘉兵衛がもし二代目や三代目に代替わりしていたなら、果たしてこの飛び込み営業は成功していたかどうか。創業の激動期を生き抜いてきた初代嘉兵衛だったからこそ、商材が持ち込まれた経緯に惑わされずに、それ自体の持つ本来の可能性に気づけたのかもしれず、商人として無垢だった宗円にとってもこの人物がビジネスパートナーになってくれたことはこれ以上ない幸運だったのかもしれません。

煎茶文化をはじめ多くの中華文化を日本に持ち込んだ黄檗(おうばく)宗。この宗派は明朝の再興のために清朝の支配から明朝文化を避難させるための外部ストレージとして立宗された。結局明朝の復活は叶わず、黄檗宗の知識と文化、技術は日本に帰化し、多くの日本文化の基礎となった。煎茶もその一つ。写真は大本山の万福寺。(No machine-readable author provided. Fg2 assumed (based on copyright claims)., Public domain, via Wikimedia Commons)

日本茶の革命へ。

これからタッグを組んだ永谷宗円と山本嘉兵衛は、日本の「お茶」に革命を起こしていくことになります。

後に現代「日本茶」の元祖となった奇跡の銘柄「天下一」。

参考文献

橋本素子「日本茶の歴史」

桑原秀樹「お抹茶のすべて」

参考サイト

山本山、Wikipedia、コトバンク、日本遺産ポータルサイト 日本茶800年の歴史散歩世界遺産 富士山とことんガイド 富士講宇治田原町観光情報サイト 宇治田原散策ルート 信楽街道穴田小夜子 江戸時代の宇治茶師京都府 京都府の農政について 「歴史・文化的景観」分野 資料2-1 歴史・文化的景観チーム、 など。

画像、動画元サイト

山本山、Wikimedia Commons、国立国会図書館デジタルコレクション 江戸名所図会 7巻[1-35]、photoAC、Official YouTube Channel of the flutist James Strauss 京田辺市 三山木ミュージアム~文化によるまちづくりの可能性~、など。

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