前回からの続きです。
日本で最初の国産煎茶「天下一」の発売を始めた鍵屋。初代が敷き終えたレールに沿ってまさに時代の寵児と言っていいほどの急速な上昇期が続きます。
後に現代「日本茶」の元祖となった伝説的な煎茶「天下一」。
御用茶師、山本家。
当主の「嘉兵衛」は順調に代替わりを進め、五代目嘉兵衛の代になると、ついに一橋卿・幕府本丸「御用」茶師にまで上り詰めます。当然のことながら四代目嘉兵衛の頃にはすでに苗字帯刀が許されていて、五代目は山本嘉兵衛徳潤という洒落た名前です。御用茶師となったのは文化十三(1816)年のことで、一橋家の当主が四代目の斉礼(なりのり)に代替わりしたタイミングで任じられています。

縁は上手に使ってこそ。
斉礼の母は、室町幕府の管領家で畿内周辺の守護、畠山氏に仕えた内衆の野尻(のじり)氏の出で、野尻氏はもともと山城国綴喜郡野尻郷(現在の京都府八幡市)を地盤として、北河内に広く影響力を持つ氏族でした。当然ながら山本郷も野尻氏の配下の土地だったはずで、五代目は斉礼の母に様々な運動を展開することによって御用を手に入れたのかもしれません。もっとも、茶頭取の上林家を筆頭に、御物茶師、御袋茶師、御通茶師などという一般人を販売対象にしていない伝統的な御茶師の連中にとってみれば、山本などは所詮「町売り」であり、ヒエラルキーの階層が完全に違いました。例えると、ユニクロやナイキがエルメスやルイヴィトンらと直接的なライバルにならないのと同じです。
宇治市宇治妙楽の上林春松本店に併設されている「宇治・上林記念館」。上林春松家に伝わる歴史資料が公開されている。
「御用」へ投資した理由。
この五代目嘉兵衛は狭山茶(煎茶)の知名度を全国規模に押し上げた仕掛け人でもあります。御用茶師は茶問屋にとっての最高の名誉ではあるのですが、それ自体は何の金銭的な利益を産まない赤字商売で、投資としては悪手でした。しかし狭山茶という新ブランドのキャンペーンを張る際には「気鋭の新御用茶師、山本家」という肩書が絶大なハロー効果をもたらします。茶問屋山本が代を重ねてもしっかりとしたブランディング戦略を持ち続けていたことが伺えます。

保水性のない耕作不適合地こそ栽培適地。
実はこの狭山茶は、狭山の地元の人々が独自に製茶法を学び、工夫して「狭山火入れ」という独特の火入れ法を確立したことでによって製茶されたもので、宮大工だった吉川温恭、剣士で俳人だった村野盛政、農家だった指田半右衛門などという彼らはそれを山本に持ち込んだのでした。つまり永谷宗円の時と似たような経緯で有望な販路として山本が選ばれたのですが、おそらく彼らは宇治で製茶法を学んだ際に永谷宗円のエピソードも耳にしていて、持ち込むなら山本と決めていたのでしょう。庄屋の宗円が完全な飛び込み営業をしたのとは違って、彼らはの新規営業は事前にDMと試飲サンプルを送り付けるという洗練されたもので、これを飲んだ五代目嘉兵衛は流石で、即座に「御用茶師」の肩書の購入のための運動を開始したのです。
狭山茶の茶園のほとんどは現在の狭山市にはない。最大の産地は入間市で、この地図の中央部、茶どころ通りを中心に左右に広がる細長いエリアこそが狭山茶の約6割を生産する最大の生産地。蛇足だが、航空自衛隊「入間基地」の敷地の約9割は狭山市内にある。両者とも紛らわしい。
ウラ甲州街道(青梅街道)沿線開発。
木材と石灰(漆喰の材料)の供給拠点である青梅に近い狭山で青製煎茶が大量生産できれば、江戸へのリードタイムを劇的に短縮できます。また輸送によるコストもリスクも劣化も大幅に低減できます。他の茶商に対して圧倒的なアドバンテージを持つことができるのです。
狭山茶フィーバー
晴れて山本家は文政二(1819)年、「霜の花」「雪の梅」と命銘した狭山茶の一大キャンペーンを開始し大成功を収めます。やがて狭山茶は全国的な人気を博すに至り、茶問屋山本の重要なポートフォリオの一角を占めることになるのですが、ここら辺りの流れも宗円の青製煎茶「天下一」がフィーバーした時の流れと面白いほどソックリです。
チャノキの北限に近い狭山茶は新芽が強く、製茶の際の火入れも強い。渋みの立ったシッカリとした味わいと香ばしさが特徴。
重荷を覚悟で「御用」を拡大。
そして次の文政年間の十三(1830)年には、山本家は西御本丸・東叡山・御三卿(田安・一橋・清水)の御茶御用も勤めることになりました。東叡山とは、徳川家の祈祷所であり菩提寺である上野の寛永寺の山号で、歴代山主を皇室から迎えていたことから東叡山寛永寺は江戸における朝廷の出先機関であり、幕府にとっても重要な窓口でした。西御本丸とは、江戸城本丸の西南方にある先代将軍の隠居所であり、世子(現将軍の跡継ぎ)の居所としても使用されていた一郭で、先代将軍が会社で言えば会長職みたいな活動をする拠点となった接客室であり、同時に、おじいちゃんが将軍家業のイロハを孫に教育する教室だったのでしょう。このような場所で使われる碾茶(抹茶)に採用されたのですから、茶問屋山本のブランドイメージはこの当時すでに支配者階級が口にして恥ずかしくないレベルに到達していたのでしょう。また、幕末の動乱が始まる中でこのような場所は大変に賑わっていたはずですから、安土桃山からの伝統的な御用茶師が対応を渋ったのかもしれません。名誉と引き換えに売れば売るだけ損をする商売なのですから。

文化文政という倹約期の空白。
文化年間という時代は、世界的にはナポレオンのフランス帝国の絶頂期にあたり、その余波からオホーツク海ではロシアが、東南アジアではイギリスが太平洋に勢力を盛んに拡大していた時期で、高田屋嘉兵衛で有名なゴローニン事件が起こったり、間宮林蔵や近藤重蔵などの探検家が北海で活躍したり、長崎でフェートン号事件が起こりました。さらに次の文政年間では、シーボルト事件が起こったり、幕府が異国船打払令を発布したり、その後でモリソン号事件や蛮社の獄などもあって、まさに明治維新へつながる外圧による徳川政治体制の動乱期がはじまった時期なんですが、一方で、文化と文政の両年間は一般に現代に知られる江戸の町人文化の全盛期にあたる時代で、「通」とか「粋」などの江戸庶民文化を持ち上げる単語が産まれたり、同時に「野暮」などというそれ以外を侮蔑する言葉も産まれました。読み物では恋愛やギャグ、ファンタジー本などのライトなものが流行り、旅心を掻き立てる浮世絵が流行りました。そして江戸で開花した文化は地方へ溢れ、俳諧や川柳、歌舞伎、そして国学や蘭学までもが全国的な盛り上がりを見せました。この両時代の庶民文化の隆盛をまとめて「化政文化」と呼ぶのですが、現代の我々が江戸時代の文化と聞いて想像する文化や芸術、芸能人などは実はほとんどがこの時代に活躍した物や人です。

クセ強な煎茶、玉露。
日本における「喫茶」文化は、まさにこの化政文化の一つであり、茶を堅苦しい接客道具ではなく、もっとプライベートな場、例えば気のおけない友人や隣人と、若しくは家族の団欒の場で煎茶を飲みながら歓談する行為であり、つまりは庶民の文化でした。この市場の拡大期にリーズナブルな価格で品質が良く、さらに利率も良い狭山煎茶を仕掛けた山本家は大成功を収め、まさに「天下一」の茶商に成り上がりました。現代で例えればユニクロがアパレルNo.1になった感じでしょうか。さらに代替わりした六代目の嘉兵衛は、青製煎茶製法による煎茶特有の個性をさらに極端化させた「玉露」を上市しました。後に玉露は日本の煎茶を新たなステージに押し上げた大発明となるのですが、これは江戸庶民文化の爛熟期だからこそ産まれ受け入れられた商品でした。煎茶のハイライン商品のような認識で玉露が世間に定着している現代からは中々感じることができにくいのですが、例えば日本式の煎茶に馴染みのない外国の人に飲んで貰っても、まず玉露を気に入って貰うことはない気がします。
数ある玉露の中でも最高の品質を誇る、玉露「天下一」。濃厚な旨味を持つ茶葉は華奢で、茶ガラを「お浸し」のようにして食べることもできる。茶ガラを食べるなら、淹れるのは三煎目くらいで止めておく。
セット販売という逆転ホームラン。
そんな作り込み過ぎ感のある煎茶なんですが、六代目が市場に投入するに当たって実行した販売戦略は、御用茶師の肩書を強化し、玉露という新ブランドを投入するという先代が行ったのと同様のアプローチだったのですが、彼が工夫した点は、玉露に含まれる豊富なテアニンによるエグいほどの濃厚な甘味と香りを「まろやかで上品な風味」という言語とセットにして、付加価値の高いプレミアム価格帯の商品として、それまで全く資金回収ができなかった旗本や大名にアプローチしたことです。湯を60℃くらいまで段階的に冷まして淹れる玉露のタイパの悪さも、接客道具として考えれば逆に優秀で、この玉露を碾茶(抹茶)と同時に納品することで、武士からの資金回収率を大いに上げることに成功しました。この支配者層をターゲットにしたラグジュアリーブランド戦略によって、茶問屋山本のポートフォリオは益々充実していったわけです。
玉露として最も有名な銘柄がこの「上喜撰」。「喜撰」は宇治茶にしか付かない名で、有名な狂歌「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」は、浦賀に来航したペリー艦隊の四隻の「蒸気船」をこの「上喜撰」にかけて、役人たちが右往左往するさまを風刺したもの。
イノベーションリーダー、山本家。
歴代嘉兵衛の薫陶。
五代目と六代目の嘉兵衛たちは狭山茶、そして玉露茶という日本茶の歴史に朗らかな功績を残したわけですが、実は当時、お茶ビジネスはかなり煮詰まっていました。武士向けの碾茶(抹茶)の販売は完全な赤字でビジネスとしては罰ゲームでしかなく、収益の頼みの綱である煎茶の商売の方も、永谷宗円が生成煎茶製法をオープンソースとしたことで新規参入が相次ぎ、すでにレッドオーシャン化しはじめていました。当時の茶商たちは限られたパイの奪い合いをしながら、商品に創意工夫を取り入れて差別化に鎬を削るビジネスバトルを繰り広げていました。その中で、茶問屋山本家(鍵屋)の生存戦略は、視座の高さ、大胆さ、スピード感、スケール感、どれも頭抜けていました。
六代目山本嘉兵衛徳翁が安政二(1855)年に発行した「狂歌茶器財集」。
茶商山本の絶頂と法人化。
その地位を盤石とした山本家はやがて最盛期を迎えます。七代目の明治四二(1909)年には一日の小売が二千斤(約1,200kg)だったそうです。これはとんでもない売上で、アメリカ独立戦争のきっかけとなったボストン茶会事件で海洋に投棄された茶葉が約92,000ポンド(約41,730kg)ですから、山本家はたった35日の営業でそれだけの茶葉を小売していたことになります。もし山本家の支店がボストンにあったなら、茶会事件も起こらず、ひょっとしたら独立運動すら起こらず、はたまたコーヒーが世界的な飲料に成り上がることもなかったかもしれません。もちろん冗談なのですが、それにしても凄まじい売上です。

そして八代目に代替わりをした昭和一六(1941)年、茶問屋山本は法人組織に改組し、ついにここに株式会社山本山が誕生することになります。

打たれ強さという素養。
市場のガリバーとして君臨し、一時代を築いた山本家ですが、その一時代がほぼ一世紀というありえないほど永い時間ですし、ましてその時代が幕末から昭和にかけてという激動の時代でしたから、当然、一路平安でも順風満帆ではありませんでした。壊滅的な火事だけでも弘化三(1846)年の本郷丸山火事、大正十二(1923)年の関東大震災、そして昭和二十(1945)年の関東大空襲と、三回も被災しています。息の永い企業に求められる資質は案外、天災人災を問わず、不定期に来訪する理不尽なイベントに対する耐性や靭性なのかもしれません。

堅実な経営は地味。
蛇足です。二代目や三代目など、歴史の年表的には名前以外業績が残っていないように見える嘉兵衛たちについてですが、実は、彼らこそが山本山の歴史の中でかなり重要な役割を果たした人々だったんじゃないかと思っています。華々しい嘉兵衛達の業績のスキマにあって彼らはその裏方を担い、新たな打ち上げ花火をソフト・ランディングさせて経営基盤を安定化させた人物たちで、企業が存続するために経営者に求められる最重要のミッションを成し遂げた人物であり、もし適切にこの「堅実性」が足されることがなかったなら、茶問屋山本の歴史も、後に株式会社山本山が誕生することもなかったでしょう。
山本山にはティーバッグのラインナップも。こちらは「玉露 山本山」「合組煎茶 天下一」「合組煎茶 上喜撰 」「合組煎茶 山本山」「ちらん煎茶」「やめ煎茶」「うじ煎茶」「かわね煎茶」「かけがわ煎茶」「さやま煎茶」が各1袋ずつ入っているティーバッグの詰め合わせ。
次回からはいよいよ海苔の話題に入ります。
参考文献
橋本素子「日本茶の歴史」
桑原秀樹「お抹茶のすべて」

参考サイト
山本山、Wikipedia、産総研 地質調査総合センター 地質図Navi、国土地理院 デジタル標高地形図「関東」、関東地質試験協同組合 関東の地質を知ろう!、特定非営利法人首都圏地盤解析ネットワーク 地盤なう 解説:首都東京の地形 ―武蔵野台地の区分(最新版)を紐解く―、武陽ガス 街道を歩く 第3話 御用石灰と青梅街道、東京コンテック株式会社 関東ローム層の起源、奥多摩工業株式会社、入間市博物館 狭山茶産地の風土と特徴、産業技術総合研究所 地質調査総合センター 5万分の1地質図幅 「青梅」、首都圏アグリファーム株式会社 狭山茶の希少性、東上沿線物語 狭山茶の研究、多摩めぐりブログ 狭山茶復興へ三人の挑戦者がいた、江戸時代の宇治茶師 穴田小夜子、国立国会図書館デジタルコレクション 茶業通鑑、煎茶手帖 蝸盧 karo 意外と知らない「玉露」の歴史|起源と茶名の由来、まち日本橋 「日本橋ごよみ」のご紹介
日本橋福徳塾 山本嘉一郎氏、日本損害保険協会 弘化3年本郷丸山火災、など。
画像、動画元サイト
山本山、Wikimedia Commons、Google map、国立国会図書館デジタルコレクション、上林春松本店、など。
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