金刀比羅神社です。しかし有名な讃岐の「こんぴらさん」ではありません。岡山県岡山市北区野田屋町二丁目にある、全国に600社はあると言われる金刀比羅神社の分社の一つで、ウチのご近所にある神社についてのお話です。

博労町
ここら辺りは元々が岡山城の外堀のほとりにあって、牛馬の取引や世話を行う「博労」の町と呼ばれるエリアでした。博労町という場所は、今で言えばクルマの正規ディーラーの店舗ようなところにあたります。

クルマの正規ディーラーというお仕事は、新車の販売店だけでなく中古車も販売してます。レンタリースもしてます。そして「何ヶ月点検」と言ったようなメンテナンスや、事故や故障の際には持ち込み修理ができる修理工場も供えています。同じように、博労町では牛馬の販売買取はもちろん、レンタルやリースもしていました。ヒヅメや歯などの手入れもしましたし、ケガや病気の治療もしていました。馬具の売買や修理もしてました。
博労の職に就くには免許が必要で、博労たちは馬喰頭(馬労頭)という役人によって管理されていました。当時の馬と牛は今で言う自家用車やトラックに当たる労役の道具でしたから、まさに博労町はクルマの正規ディーラの店舗と同じで、各大名は城下にこぞって博労町を充実させました。大規模な博労町にもなると、裏手にテストコースを併設したものまでありました。ここ岡山城下でも博労町のとなりは野田屋町です。決して広い町ではありませんが、かつてここは草原の広がる小さな馬場だったのでしょう。博労たちはここで牛馬の調子を整えたり、歩走する姿を見て価格交渉をしたり、ONシーズンには市を立てたりしたのかもしれません。無論、軍事施設的な意味合いも強いでしょうから、軍事パレード(馬揃え)なんかにも使われたかもしれません。

さて、「ばくろう」は、「博労」だけでなく「馬喰」とも書きますし「伯楽」とも書きます。珍しい例では「馬苦労」と書かれることもあります。

「伯楽」は、もともと古代中国、周の時代の人名です。姓は孫、名は陽という人で、馬を見分けることに優れた人でした。この有名人の名前が一般名詞化して、馬の目利きや、馬の治療などができる専門家を「伯楽」と尊称ようになり、中世になると、牛馬の売買や仲介を職業とする人たちを意味するようにもなりました。ただ、牛馬の獣医さんと商売人を一つの単語でくくるのは無理があったのか、やがて「博労」や「馬喰」へと言葉が分岐して、なんとなく区別されて使われました。

「博=広い」という字が当てられた「博労」はまだ敬意を感じますが、「喰=食らふ」という「馬喰」には侮蔑的な響きがあります。業務の内容の違いがなんとなく想像できる呼称分けです。「馬苦労」は目線が当事者ですね。きっと大変な職業だったのでしょう。現代のクルマのディーラー屋さんも「車苦労」と書いてディーラーと読みたい気分の時があるのかもしれません。

余談ですが、「伯楽」からは、馬を見分けるだけでなく、人の資質や能力を見抜き、またそれを巧みに引き出すことのできる人という意味も生まれました。それが現在でも生きていて「名伯楽(めいはくらく)」などと使われたりします。3600年前の孫陽さんも、まさか自分の名前がここまで永く独り歩きし続けるとは思ってなかったでしょうね。
金刀比羅宮勧進
さて、今の野田屋町ニ丁目にあたるこの一帯は、馬喰町から独立して丸亀町となりました。切っ掛けはこの金刀比羅神社の勧進です。勧進元の金刀比羅宮が丸亀藩にあったために丸亀町と改名したわけです。

ここの神社の案内板に書かれた由来の説明には「天正元年(1573年)宇喜多直家入城による城下町整備に伴って創建…」と書かれてますが、この年は勧進元の金毘羅宮が産声を上げたばかりで、まだ無名もいいとこですから、この博労町の神社は創建当時は別の神様を祀っていたのでしょう。直家から宇喜多家を継いだ秀家は、天正一三年(1585年)に豊臣秀吉が四国に侵攻した際に、讃岐攻めの総大将を任せられます。宇喜多家武士団は圧倒的兵力でこの任務を達成したのですが、この際に長宗我部元親が讃岐統治に活用した金比羅宮の存在が初めて岡山の人間に認知されたはずです。しかし金比羅宮信仰が広く民衆に広まる1600年以降の話で、宥盛というカリスマ三代目がリーダーとなって八面六臂の大布教活動をしまくってからです。一方、この時期には宇喜多秀家は八丈島に流罪となっていて、岡山城主は小早川秀秋に替わっています。この後秀秋は慶長七年(1602年)にソッコーで急死するので、秀秋が岡山城主だった時期はわずか2年ばかりだったのですが、多分この時期に金比羅宮が勧進されたのではないかと思われます。秀秋などの支配者がデザインしたわけではなく、城下の民たちが勝手連的に勧進の運動をはじめて、トップがコロコロ替わる混乱に乗じてなし崩し的に成立させたのかもしれません。

こういった経緯が関係しているのかどうか知りませんが、ここの金刀比羅神社は讃岐の本社(金比羅宮)からは分社とは認められていません。まあ、本社が認めている分社は600社の内わずか6社のみですから、ほとんどが勝手に金毘羅大権現を祀っているようなものなんですが、公認かどうかは実際にはどうでもいいポイントです。悪い例えを挙げます。多くの人に信奉されるiphoneですが、全国に10店舗しかないAppleの直営店で売られているものと、多くの一般の販売店で売られているものに何か違いがあるのか?と言えばそんなことはないのと一緒です。いや、一緒にしちゃダメか。

さて、1600年くらいに出来上がったとわたしが勝手に見立てている丸亀町の金刀比羅神社ですが、前述したように主祭神の大国主神などは明治に入って廃仏毀釈をさせられてからの後追いで、人々の信仰を集めたのはクンビーラというインドのワニ神様(金毘羅大権現)であり、それはすなわち金比羅宮の三代目代表の宥盛というスーパーインフルエンサーによって理解りやすく広められた「海上交通の守り神」がご本尊です。で、何で水運の守護神がこんな博労の町に来たのかと言えば、岡山城下はほとんどが真っ平らな土地で、水運が盛んな場所でして、同時に度々起こる氾濫による洪水の被害も深刻な土地でした。水運で生計を立てている者が多かったのもあるでしょうが、水の守り神様を求める住人たちの切実なニーズもあったのでしょう。

現在
時は流れ、第二次世界大戦中に岡山市街は140機のB‐29による米軍の絨毯爆撃を受けます。大型小型の焼夷弾が合わせて約890t(約95000発)が上空から投下され、市街地の73%が灰燼に帰したのですが、その際にこの金刀比羅神社も全焼しています。

現在の本殿は1946年に再建されたものですが、わずかに狛犬や灯籠、手水鉢などが創建当時の遺構として残存していて、その亀裂や損傷から空襲の熱波や生々しさを感じ取ることができます。ちなみに日本政府が終戦を宣言したのはこの47日後であり、この時に被災した当時9歳の少年だった高畑勲氏が、後に傑作アニメ「火垂るの墓」で当時の身悶えするような悲しみを表現しています。

現在では野田屋町二丁目となっている丸亀町、もとい博労町に今日も鎮座し続けている金刀比羅神社。目立たない神社ではありますが、朝夕には通勤の人々がひっきりなしに訪れていて、今でも静かに愛され続けている水の神様です。
参考までに、伯楽(孫陽)についての故事は「列子」の中に収録されています。列子はスマホで「れっし」と打っても「列子」が変換候補に挙がらないほどに諸子百家の中ではマイナーな学者で、列子について書かれた書籍もそのほとんどが絶版してます。訳文ではなく列子の魅力について書かれた読本が販売中ですので、良かったらどうぞ。
参考サイト:
Wikipedia、コトバンク、國學院大學「古典文化学」事業 神名データベース、nippon.com『馬喰町初音の馬場』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第117回、e國寶 陣羽織 猩々緋羅紗地違鎌文、瀬戸の島から金毘羅大権現形成史5 金毘羅大権現の基礎を築いた宥厳と宥盛、など。
画像・動画元サイト:
Wikimedia Commons、国立国会図書館デジタルコレクション、とっとりデジタルコレクション、JADAチャンネル【広報】、OHK公式チャンネル、など。
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