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そうめん#2 索餅と麦縄

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このコンテンツは「そうめん 1 胡人と胡餅」の続きです。

索餅

大喰らいの中華。遊牧民文化を平らげる。

さて、

中華で定着すると、胡餅は携帯食であることから開放されて、カリカリの乾パンからモチモチのフラットブレッドになりました。作る手間が減って味のランクが上がりました。さらに中華で最も特徴的な調理技術である「蒸す」というテクニックによって、「蒸しパン」が産まれました。さすが中華。もう、一足飛びで旨そうです。

「蒸す」という、燃料と水の消費を抑えながらも、旨味や栄養素を効率的な調理技術は、中華料理の核心的な技法であり、当時、雑穀や米は主に蒸して食べられていました。さらに胡餅が伝来した時代には「麺」や「饅頭」などの技術も既に存在していたようで、胡餅がもたらしたのは、小麦を挽いて熱加工するという技術そのものではなく、「胡」文化の大流行という一大ムーブメントの一翼を担ったと考えるべきなんでしょう。唐が滅んで北宋の時代になると、さらに炒める、揚げるという、現在の中華料理の中核をなす、油をふんだんに使った調理法も普及し、現在の小麦粉を使った料理の多くが南宋の時代にはもう完成していたようです。

三国志では諸葛亮が発案したとされる饅頭。実史でも、隋唐朝の以前の南北朝時代には米粉を発酵させて蒸す記述があるらしい。写真はチベットのハレの日メニュー「モモ」。肉まんよりも、蒸し餃子や小籠包に近い。(Delhifoodwalks, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

隋唐王朝の時代の胡餅がどのような形状をしていたのかは不明ですが、長安の大衆には広く浸透していたようです。日本からはるばるやって来た遣隋使たちは、挽いて作る加工食品としては、ドングリやトチの実などの木の実くらいしか食べたことがなかったでしょうから、さぞ驚いたことでしょう。この胡餅とともに、胡椒とクミンの効いた羊肉の串焼きなんかを長安の市民たちは日常的に食べていたはずで、遣隋使たちが受けたカルチャーショックのデカさはどれほどだったでしょうか。

中東地域のキングオブ肉料理といえば、シシカバブ、もしくはケバブの呼び名で有名な羊肉の串焼き。シシは串、ケバブは焼き焦がす意味。シンプルゆえ屋台で供されることも多く、夜になると羊肉と香辛料との燻煙が街中に霧のように漂う。写真は中国山西省昔陽のもの。中国でのシシケバブの露店は「回族」として括られるムスリムたちの重要な現金収入源。(我乃野云鹤, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

もちと餅。

「餅」とは、「2種類の穀物を混ぜた食べ物」、より具体的には「小麦粉と雑穀を混ぜた加工食品」という意味の漢字らしく、その雑穀は多くの場合、米であることが多いようです。ですから、「大根餅」とか「月餅」とかを見て「何でモチやねん?」と思う人もおられるかとは思いますが、漢字の意味合い的には「餅」で何の問題もございません。

台湾でポピュラーな「胡椒餅」も、言うなれば「スパイシーな焼き肉まん」。皮の生地には小麦粉、もち粉、蕎麦粉などがブレンドされている。(© 2019 kukurunbo)

ややこしくなった事の発端は、この漢字が日本に輸入された際に、「もち」に対応する漢字として当てはめられたために、「もち=餅」となったことです。本来「もち」は穀物を携帯しやすくしたり保存しやすくしたりした加工品を指す「持ち」や「保ち」という意味の言葉で、必ずしも小麦を必要としていませんから、どちらかと言えば穀物を粒のまま蒸した上でついて作られた食物を指す「糕(こう)」という漢字こそ「もち」に適当なはずでしたが、餅(へい)の字がもちに当てられてしまいました。

また、餅(へい)が持ち込まれるまで、日本には小麦と大麦とは区別されておらず、また麦を使った食品を示す言葉は「むぎ」ひとつしかありませんでした。この言葉は脱穀する「むく」が由来な気もします。石臼も遣唐使によってもたらされたテクノロジーですから、それまで麦は剥いて食べるもので、粉にして加工するという発想はなかったと思われます。であれば、石臼伝来以前は小麦より大麦のほうが扱いやすかったことでしょう。粒食の穀物としては雑穀の中でも低く扱われていた小麦は、一方で食品添加物としての用途では認知されていたようで、スープなどに添加して一緒に煮込むことで、とろみ付けの材料に使われたりしていたそうです。「索」は「なわ」と同義の漢字で、また、索餅は細長かったので「なわ」という単位で計量されていました。こういった感じで、外来語の「索餅」と、それに対応する和語「むぎなわ(牟義縄、のちに麦縄)」という言葉が定着しました。当時は索餅の他にも「たつか(多都加)」など数種類の小麦の加工食品があったそうですが、その詳細はまだ発見されておらず、索餅のもう一つの呼び名だとも言われています。

なぞだらけの索餅

その索餅(麦縄)は伝来してしばらくは、どのように食べていたのかが不明で、一説では、お菓子として油であげて食べられていたとも考えられています。当時、油と言えばごま油です。ごま油は夜灯の材料としても貴重でしたから、これは高級菓子です。そうであれば、現在も長崎の中華街で売られているお菓子「よりより」などが、索餅(麦縄)の直系の子孫かな?と連想できそうな形状をしています。が、いずれにせよ、索餅(麦縄)は唐から持ち帰った最新のレシピで、天皇(大王)から臣下に振る舞われたり、七夕の神事に欠かせない供物とされたり、宮中での特別な一品として扱われていたり、僧侶や写経所の写経生(仏典の印刷所の人間印刷機たち)にも配給されていました。この七夕に索餅が祀られた故事から現在、7月7日は「乾麺デー」となっております。

「よりより」。「唐人巻(とうじんまき)」、「麻花巻」、「ねじりんぼう」など、呼び名は様々。日本では菓子だが、もとは陝西省(長安のあたり)のもの。塩味があり硬い食感で、甘味をかけておやつにしたり、素のままで朝食の添え物にしたり、主食や麺の代わりに調理して供されることもある。

石臼、ようやく広まる。

この索餅(麦縄)が現在のそうめんの形に近づいたのは室町時代です。食だけでなく、室町という時代は、それまで日本に一方的に持ち帰られ山積みされたままになっていた外国由来のテクノロジーが、日本の風土や社会構造に合わせた形にローカライズされ、日本独自の文化として個性を持ち始めた時代でした。その最大の理由は、中華で戦乱期が終わり、文化糾合的な宋王朝が成立してことによって、人々のエネルギーが軍事から文化にシフトしたという「世界の潮流」が日本にも波及しただけの話なんですが、日本独自の変化としては、武家が公家を圧倒するようになったという政治的な背景があり、公家が飾り棚で愛でていた物を武家が棚からおろして実用し始めた、ということでもあります。例えば麺食に欠かせない水車や石臼は日本に持ち込まれてから約500年もの間、寺院や公家の手もとに置かれていただけで、その研究も模倣もされた記録がありませんが、鎌倉中期に聖一国師(円爾)によって茶とともに、抹茶を挽くセット品「水摩(みずま)」として宋朝からふたたび再輸入されて、ようやく広まり始めました。

この超絶便利機構を500年放置するとか・・・

この石臼の事例も、お抹茶道具のセット品として持ち帰られるまで、倭人たちにはその使い方が想像できなかった。ということではなく、当時の支配者が公家ではなく武家に移っていたということが違いとして大きかったと思われます。鎌倉時代から昭和の敗戦まで日本の歴史は一貫して武家による統治下で起こっていて、現在まで続く日本文化は全て、これらの軍事政権下で発展したものと言えます。その社会において公家というものは、ただ民から崇められる全知全能な神か天上人のような存在で、その意識のベクトルは常に下から上に登っていくもので、彼らは税を一方的に受け取るだけでその対価を下々に与えなかった。まあ、そのかわりと言っては何ですが、公家の絶対数は日本の総人口の割合に対して民が負担を十分に許容できる、隠し味のスパイス程度に保たれていました。

まあ、軍人というか、武士たちも元はと言えばその多くが、絶対数がスパイス程度の公家から堕天使のように貴族落ちしたスペア(予備)の貴人たちで、彼らがそれぞれに降下した領地で自存自衛を図った結果、「民を治める」という発想がうまれ、そのなかで公家が持っているが何の役に立つのか解らなかった技術や文化が民草によって息を吹き返したということです。

中野区にある宝仙寺の石臼供養塚。江戸時代後期ともなると、中野は江戸の食糧の生産拠点として製粉が盛んにおこなわれた。石臼の用途として、大豆を擂り潰す需要も高かった。

また、日宋貿易から勘合貿易へと本格化する民間貿易によって、日本は絹や工芸品、書籍や仏具、陶磁器や銅銭などを求め、代わりに中華王朝からは硫黄や刀剣、鉱物や材木を求められました。日本からの荷に比べて中華からの荷が一貫して極端に軽かったために、中華を出港する船底には必ずバラストを積まねばならず、その結果、換金性の高い石臼が好んで載せられました。石臼というハイテク製品は、需要の拡大に呼応するように供給も増加されていたのです。

索餅、変身する。

索餅は室町時代にはだんだんと、現在そうめんと聞いて我々が想像する、細身の麺に近づいてきたものと思われていて、職業として「そうめん師」という専門の仕事があり、都にはそうめん専門店が軒を構えていたと言われます。麺の名称も、「索餅」から「索麺(索麪)」となりさらに「素麺」と変化したようで、実際にはこの3つの名前が同時に使われていた時期が長いようです。呼称の変化が先か、形状の変化が先かはわかりませんが、「餅」から「麺」へ、「索餅」が「そうめん」になったのは、公家の文化が民間に広まったわけですが、先にも述べましたように、これは公家たちが何か運動したわけではなく、南北朝の朝廷動乱で顧客である公家が逃げてしまい、置いてけぼりを喰らった宮廷料理人や「御用達」業者たちが、仕方なく市中の人間に向けて商売を続けた結果だと思われます。そうめんの呼称も実は、「同じ名で供すは不敬なり」などと、この関係者たちなりの忖度の結果変化したのかも知れません。

呼称の変化についてもう少し語りますと、日本において「餅」という字が「おもち」と繋がってしまった以上、索餅という言葉が索麺(索麪)となる変化は理解しやすいのですが、索麺(索麪)はウ音便で「さくめん」が「さうめん」と読まれるようになり、さらにそれが転呼して「そうめん」となり、次にその「そうめん」の音に当て字をして「素麺」と書かれるようになったそうで、なんとも変形の過程が適当です。現在の日本においても同じような過程で外来文化が根付いたりしますし、果たしてこの名称の変化は日本特有の「忖度」なのか「ゆるさ」なのか。

括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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