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ナマコとイリコ#2 中国がナマコ好きになるまで

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ここがヘンだよ明王朝

ここまでは二国の海上帝国、特にスペインがいかに銀を世界中にばらまいたかについての解説をしましたが、ここからは明王朝の経済についてのお話です。銀が過剰に流入してバブルが起きるのですが、それがどうしてワンレンボディコンではなく、国民総中流化でもなく、ナマコに向かったかを解説していきます。

基本は農業

そもそも明朝の創始者、洪武帝は農民の出身です。彼は商人が強い力を持つことを警戒していたこともあり、明朝を重農抑商という歪んだ基本政策で運営しました。経済活動は政府によって100%管理され、マクロ的に必要最低限の規模に抑えられました。私は雰囲気的にカンボジアのポル・ポト政権の政策をイメージしてます(無論、全く異なる政策です)。明朝は征服王朝である朝のカウンターパーティとして政権を奪取しましたから、行政・軍事・外交などあらゆる権限が皇帝に集中する皇帝独裁体制が採られました。遊牧民の価値観がベースの元王朝の特徴を列挙してみると、極端とも言える実利主義、実力主義に篇重した思想、それによる異民族や異文化に対する異常なまでの寛容さ、交易を最優先に考える自由経済主義などなど…。皇室を含めた政府は3.3%の消費税の課税のみを財源として運営される極小規模のものでした。明朝の統治はこの真逆で、極めて内向きで、封建的で、権威主義的で、模範的な「中華の絶対王政のような王朝でした。

現在は故宮博物館として使われている紫禁城は永楽帝の時代に建設された。当時の権威主義を象徴する巨大構造物。「紫」は天帝にあたる星座、紫微垣(しびえん)。「禁城」は天子である皇帝の居城を表す。(Agomga14, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

飢える国民、尽きる国庫、アングラ化する商業。

しかし、いくら明の政府が商業活動を抑え込もうとしても、中華は世界の先進文化の中心地であり、文化的にも経済的にも巨大な求心力を持ちましたから、湖に川の水が流れ込むように、人と文化と富がどんどん流入してくるわけです。その結果、かなり歪な社会的資本の分布が出来上がりました。まず、庶民は農業ばかりさせられて資産らしい資産は持てません。常に金欠。次に政府は農業しか認めない手前、農業からの税収に頼った国家運営しかできず、常に歳入不足でした。こちらも常に金欠。これにより政府は増税を繰り返し、農民は際限なく疲弊し続けるという終わりなきデスマーチを繰り広げていました。

一方で、表立ってできない商業活動は貴族や官僚などの有力者の庇護下で私的に・・・・・・・・・・・行われはじめました。表面上は存在しないプライベートなネットワークによる経済活動は、拡散も展延できない宿命的な構造的欠陥を持っていましたから、その恩恵に預かれる人々が極端に限定されてしまう上に、課税対象にもならないので国家の財政にも何ら寄与しませんでした。農業に専従させられていた大多数の国民は青息吐息でまさに「水呑み百姓」状態。広大過ぎるエリアを支配する明朝政府も、国土の維持にかかる管理費や軍事費に財政が完全に破綻していました。

公務員は副業で生計を立てる。

当然ながら公務員の給料などは無給に近く、雀の涙ほども出ませんでした。しかも給料で配られる紙幣に対する信用すら年々低下していき、紙幣の価値もなくなってしまいました。これが貨幣が紙幣(実際には銅貨もあったが、銅も次第に生産できなくなったので使われなくなっていた)から銀貨に変わった直接の理由でした。

が、巨大な官僚組織があって初めて国家が成立する中国型の政府において、その根幹を成す膨大な公務員達が実質無給で、奉仕作業をしていたのでは彼らは生きていけません。じゃあ、役人たちはどうして生きていたかというと、彼らは自分の権限を私的に活用して自活・・して生計を立てていました。中でも産業や貿易に関する権限などの私的に活用しやすい権限を持つ役人には富と人材と技術が集中したようで、彼らは開発、交渉、防衛などを全て私的にコンプリートできる、まるでプライベートな国家のようなコミュニティを次第に形成していきました。

明朝時代の紙幣、大明宝鈔。高額取引には宝鈔、小額取引には銅銭が用いられた。しかし、宝鈔と銅銭はともに発行額が少なく、明王朝は江南地方の生産力を主軸に据えた実物経済を重視していた。主軸は米や棉布、絹帛などで、江戸時代の石高制の経済と似ている。(The government of the Ming Dynasty., Public domain, via Wikimedia Commons)

超金満銀河の誕生

つまり、明朝は基本的に超貧乏国家であり、同時にその個々のコミュニティの中では人、カネ、モノが溢れている、多数の超金満小国家群を内包していました。当然ながら、バブルに宝飾と飽食はつきもので過剰な美食文化が大いに花開しました。さらにカロリーの摂取過多の結果、健康志向も高まりました。そこで、持てる人々はそれまで医療に用いる生薬として重用してきた希少で高価な動植物を、食材として料理に取り入れ始めました。いわゆる薬膳です。海参(ナマコ)もその流れの中で食材入りして大ブレイクしました。明朝の14代皇帝が、アワビ、フカヒレと海参を気に入って毎日のように食べていたことからわかるように、海参はやがて薬膳界のスーパースターにまで成長しました。

明朝の14代皇帝、万暦帝 朱翊鈞。清朝に編纂された歴史書「明史」には「明朝は万暦に滅ぶ」「天性の浪費家」と評された、伝説的な暗君。その遺骸は近代になって紅衛兵にガソリンで焼却処分されたりと、没後に踏んだり蹴ったりのフルコースを経験中。(明朝画师, Public domain, via Wikimedia Commons)

めぐって日本にビジネスチャンス到来

ここで日本が登場します。日本は中国に対して古来から一方的な貿易赤字国でした。「伝統的」と言ってもいいほど日本は中国が欲しがるものを生み出すことができませんでした。時代が進むに連れてその傾向はさらに顕著になります。明朝から時代が進んで清朝、日本が江戸時代の頃には、長崎貿易で清朝が欲しがる海産物と言えば、俵物三品と呼ばれた、干しアワビ(乾鮑)、フカヒレ(鱶鰭)、そして海参(煎りコ)くらいしかありませんでした。日本は清朝のものなら何だって欲しかったんですが、絶望的に不均衡なバランスでした。どうして中国が日本に海産珍味を求めたかについては、薬膳料理の流行し始めたのが重農抑商が国是の明朝時代にあることが関係しています。産業の育成が自由に大っぴらにはできず、かと言って、政府が認めた極めて細い交易ルートではとても民間の需要を満たすことができないので、非合法的な交易が各地で成立していました。悪名高い倭寇は、その実態はこういった海上交易で、明国内から東南アジアに拠点を遷した貿易商人による密貿易でした。まあ犯罪行為ですから、「倭寇」と蔑称されていたわけです。

元々「倭寇」と呼称された海賊行為は、南北朝時代の政治的な混乱期に、瀬戸内の航路案内などの収益を絶たれた海賊などが、戦火のない朝鮮半島、遼東半島、山東半島などで私掠を行ったもの(前期倭寇)。これが海禁政策の明朝で行われた私的な闇貿易の蔑称として用いられた(後期倭寇)。(The original uploader was Yeu Ninje at English Wikipedia., CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

ナマコの輸出資源化

いずれにせよ、時代に関わらず日本の政府は中国との貿易不均衡、金銀の流出に頭を悩ませていましたから、徳川幕府は俵物三品の輸出増大に躍起になりました。国内で消費させないように市場にナマコを並べれないようにしたほどです。また、この時期に「コ」に「海鼠」という字を当てました。貴重な外貨獲得のための資源ですから、日本人の食欲の対象から外したいという、明確な意図があって当てられた漢字なわけです。そういった意味で、「海参」と「海鼠」は、人間の欲望が作り出したオモテとウラと言えます。

現在も漢方薬として用いられる海参。写真の海参の価格は1kgあたり2万円以上。(Zarate123, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

海参は明朝以来の超高級食材。薬膳食材の御三家の最右翼として、本場中国で絶大な人気を誇り続けています。江戸時代の努力のお陰で歴史的に日本産の海参が最高級グレード品として位置づけられていて、現在でも超高額で取引されています。

参考文献:

廣野卓 「卑弥呼は何を食べていたか」

参考サイト:

Wikipedia、百度百科、コトバンク、You Tube、世界史の窓、畜産茨城、外務省、水産庁、在ペルー日本国大使館、水産振興ONLINE、魚が消えていく本当の理由、東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所語源由来辞典、ごさんべえのぺーじ、インドネシア情報ライン旅の情報〜地理の世界から〜、しまね観光ナビ、ちそう、など。

画像元サイト:

Wikimedia Commons、写真AC、など。

括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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