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そうめん#1 胡人と胡餅

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最初のテーマとして選んだのは、庶民の夏の食卓の風物詩、そうめん。

まずここでは、そうめんの誕生までの簡単な歴史を書こうと思うのですが、私が調べてまず驚いたのは、そうめんが現存する日本の麺類で最古のめんだということでした。私の感覚ではうどんの方が古そうな気がしていたのですが、これは勘違いでした。

では、日本でそうめんがどのように生まれたかということですが、これを書くために、いったん中世(古代)の中華文明圏のあたりから話をはじめたいと思います。

本場、鹿児島の回転式そうめん流し。写真は神川大滝のそうめん流し。(ja:User:Sanjo, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

日本の歴史に登場した最初の麺は、遣唐使が持ち帰った「索餅さくへい)」だったと言われています。索餅がどのような食べ物だったかは後で書くとして、この日本のそうめんの祖先とも言える食べ物、実は、当時の中国の「西洋料理」でした。

当時の日本は「東夷」と呼ばれる野蛮な辺境部族の一つ「」でした。遣唐使たちは、国家が傾くレベルの費用と宇宙飛行士並みの命の危険をおかして世界の中心地を目指していました。唐王朝が周囲の蛮族の文明化に積極的だったこともありました。たどり着ければ中華文明を持ち帰ることができると確信していました。気分的にはアポロ計画のときと似ていたはずです。旅費であり朝貢品である膨大な量の銀とシルク製品を抱えて、やっとたどり着いた異世界で彼らは、漢字や儒教、律令などとともに、できるだけ最新で最先端の「モード」を数多く日本に持ち帰ろうとしました。その結果、彼らが持ち帰ったものの多くは本来的には中国伝来のものではないものが多かったわけです。漢訳した仏教もそうですし、この小麦を粉にして加工して食べる習慣も、西域の胡人(ソグド人やウイグル人)たちから長安にもたされてから間もない、流行りの外国料理でした。「胡餅」と呼ばれていたようです。

遣唐使船(貨幣博物館蔵)。約500人が4隻に別れて乗船し、波濤万里を越えよと挑んだ。(PHGCOM, anonymous Japanese painter 8-9th century, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

胡人の「」は、中華の人々がヒゲなどの体毛が濃い外国民俗に使われる際の蔑称で、胡人とは「ヒゲ面野郎」みたいな意味で、北方や西方の寒くて乾燥した地域に住む人々に対して使われた呼称でした。ですから、具体的にどこどこの民族を指して用いられるわけではありません。そもそも古代のユーラシア大陸は、長ーい時間をかけて気温が徐々に寒冷化していました。ですから、人類の生存限界線は絶えず南方に押しやられていたわけで、それこそ漢王朝の時代から絶えずさまざまな民族が、難民的に押し出されては、中華に吸収されていました。グッと寒冷化が進み北方に住む人々が一気に南下したことで「五胡十六国」なんて時代ができたこともあったくらいです。ですから、胡人の定義は民族的な外観とかではなく、儒教的価値観を持っているかどうかのような、文化的に「中華ナイズ」されていない人々を指したかと思われます。この唐の時代にはペルシャ系(トルコ系)の貿易商であるソグド人(商胡)がたくさん長安で仕事をしていたようで、当時、胡人と言えば彼らがその主な対象でした。ペルセポリスの謁見の間に残るレリーフのソグド人の外見は、たしかに彫りが深くてヒゲが濃い人が多そうですので、まあ、外見的な要素もあったでしょう。

紀元前5世紀のレリーフに刻まれた、ペルシア王に貢物をしているソグド人たち。(A.Davey from Portland, Oregon, EE UU, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

紀元前のペルシャ帝国はギリシアの文明圏にあった小アジアの征服に苦労していました。たびたび反乱が起こり、そのたびに民族浄化(虐殺)を行っては、生き残りをソグディアナに強制移住させたとされています。その移送先がソグディアナでした。ペルシャ帝国の統治は基本的には多民族性を前提にしているので、ソグディアナにはオアシスのような居住可能地域ごとに小さな都市国家が、被保護国的な立ち位置で点在していました。つまり、ソグディアナには刈り取られて根無し草となったかなりの数のギリシア人が土着化し、その過程で自然の成り行きとして商人化していったと考えられます。商人が成立する過程はだいたいどこでも同じです。ただしここはソグディアナですから、オアシス間の移動に馬やラクダが大いに用いられ、それが商隊を組んでの広大な区域での交易を可能にしました。

ソグド人の本拠地、ソグディアナ(紀元前300年頃)。現ウズベキスタン首都のタシュケントとか、古都サマルカンドもここに含まれる。(self, based on WP locator maps Category:Locator maps, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

唐朝を興した李氏は、もともと鮮卑族というモンゴル系の遊牧民が、漢民族と同化した氏族で、シルクロードで商隊を組んで行き来する貿易商ソグド人や、そのソグド人の主要な顧客である遊牧戦闘民ウイグル人ともつながりを持った一族でした。李淵(高祖)が挙兵してたった1年で唐朝を創始できたのも、ソグド人とウイグル人の経済的、軍事的な背景があっての荒業でした。唐の首都長安で人々は、胡座(椅子)に座って胡楽(西域の音楽)を奏で、胡扇(白粉、おしろい)を塗って胡旋舞(西域のダンス)を舞い、打毬(ポロ競技)を楽しみ、胡椒がふりかけられた胡餅を味わっていました。100万人を数えたと言われるこの世界最大の巨大都市は、今のわたしたちが「中国の都市」と聞いていだくステレオタイプなイメージよりも、遥かに中東の風味、色彩が濃い街並み、エキゾチックな風景をしていたはずです。

中世に描かれたソグド商人。相手を値踏みするような、抜け目のなさそうな凄みのある顔つき。そしてヒゲが濃い人ばかりではなさそう。彼らはシルクロード貿易を牛耳り、仏教、キリスト教(ネストリウス派)などの文化の伝播をも担った。ちなみにあぐら座りは「胡座」と言う。(Unknown (Life time: During the medieval period.), Public domain, via Wikimedia Commons)

ちなみに唐朝の前の隋朝の帝室である楊氏も鮮卑族で、隋朝の実質的なラストエンペラー煬帝(楊広)と唐朝を興した李淵とは従兄弟の間柄でした。唐の長安と同様、隋の首都であった洛陽もさぞ国際色の強い大都市だったはずで、遣隋使や遣唐使たちは世界の大きさ、故郷との異世界っぷりに困惑したはずです。宿では胡楽が流れ、メシ屋では踊り子が胡旋を舞い、都人と仲良くなるためには接待打毬のひとつでもできなきゃ駄目と言われる。街を行き交う鼻筋の通った商人たちは故郷で見たことのないほどの豪奢な刺繍で飾られた服を着ていて、一方のエリートを自負している自分たちは靴を履くことにすら慣れていない。隋唐の平民どもは口を開けば宗教や思想などの教養の話ばかりして、商人どもは対価を用意できなければ話も聞いてくれない。生活は筆談でできるが仕事には言語の習得は必須で、しかし使われている言葉や文字は多種多様…。えも言われぬ香辛料の複雑な香りが、黄砂とともに漂う世界の中心で、彼らは帰郷後の栄達を夢見ながらも「絶対に次の便で帰ってやる!」と血走った目で胡餅をかじりながら、乾いたスポンジのように、手当たり次第に文化を吸い取ったことでしょう。

唐王朝は西方に対して一貫して開放政策を堅持したので、この時代に様々な西方の食材や食文化が次々と中華にもたらされました。代表的なものでは、ゴマ(胡麻)、羊肉、牛肉、鹿肉、ラクダ肉、ほうれん草、茄子、レタス、ギーなどの乳製品、ワインなどが持ち込まれ、「胡」文化は現在の日本の「欧米」や「西洋」のようなステータスをもって中華の人々に受け入れられました。さらにこの文化が日本に伝播した際には「胡」の文字は消え、唐の文化として代わりに「唐」の字がステータスシンボルとして頭に付けられ、さらには唐朝が滅んだ後にも「洋物=唐」というネーミングルールが残り、唐辛子や唐もろこし(唐きび)、唐なす(カボチャ)、唐芋(サツマイモ)、唐揚げなどの和名が生まれました。

隋朝の第2第皇帝の煬帝(楊広、左)と、唐朝の高祖(李淵、右)。さすが従兄弟。激似。(Created by modifying(Yan Liben and National Palace Museum ,Public domain, via Wikimedia Commons))

さて、「餅(へい)」という漢字は、本来は「おもち」のことではなく、小麦粉をメインに使った食べ物の総称を指していて、食偏に「並べる」という字の構成は、キビやアワ、米などのもともと中華で食べられていた雑穀と小麦粉とを混ぜこんで作る食品を指しています。小麦粉を混ぜてグルテンが加わると、他の穀物だけでは決して作れない食べ物が作れました。それで「餅(へい)」という新字がでたわけです。ついでに言えば、「麺」は挽いた小麦、つまり小麦粉のことを指す漢字です。

では、その胡餅はどういった食べ物であったかと言えば、原始的な薄いパンのようなもので、ソグディアナの人々は薄くのばした生地をストーブの上や火に鉄板を置いて焼いて作りました。イメージとしてはカレー屋さんのチャパティみたいなものを想像すれば良い気がします。

全粒粉、塩、水が原料のチャパティは無発酵のフラットブレッドだが、食す前に直火に当てると内部の水分が気化して膨らむ。(
Created by modifying(Thamizhpparithi Maari and Dkgohil, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons))

こういった無発酵のパンはフラットブレッドと呼ぶらしいのですが、薄く重ねて運ぶことができて携帯性が良く、交易での移動に欠かすことのできないエネルギー源であったと想像ができます。イタリアのピザやインドのナンもこのフラットブレッドの一種ですが、イランの伝統的な国民食であるサンガク(サンギャク)もこの系譜に当たります。このサンガクの起源はペルシャ軍のレーション(野戦食)なんですが、なんと現在のイラン軍の主食でもあります。サンガクという名前は「小さな石」の意味から付いていて、これは小石の上で焼かれて作られたことに由来していて、現在でも釜に小石を敷いて焼かれます。

幾度となく機械化を目指したものの受け入れられず、現在でもハンドメイドで焼かれるサンガク。イランでは小麦の消費量に占めるサンガクの割合が約45%ともいわれ、押しも押されぬ国民食。かつてのサンガクは焼成された後に、長期保存を目的として弱火で完全に乾かされた。

サンガクは子羊肉の串焼きや、パチャと呼ばれる羊の頭や足の煮込みとあわせて食されることが多く、また、朝食には羊乳のチーズとあわせて食されることが多いことから、中央アジアで永々と引き継がれてきた食の伝統と、その伝統を尊重する人々の強い誇りを感じることができます。かつてのソグドの貿易商たちもきっとこれに似た食事をしていたと妄想してしまいます。彼らは野営地で積み荷を解くと、その日の胡餅を取り出しては、それを次々と焚き火にかざしては膨らまし、そこに煮込んで戻した香辛料の効いた羊の干し肉やチーズをはさみ、酸味のある乳酒を飲みながら満天の星空を眺め、眠りについたことでしょう。

現在も中国の一部で食べられている胡餅の写真。現代のものは「焼餅」と呼ばれることがほとんどで、必ずしもこのように平たい形ではない。(画像引用元:百度百科より)

参考文献:

山田 昌治 「麺の科学 粉が生み出す豊かな食感・香り・うまみ」

安藤剛久 「乾めん入門 (食品知識ミニブックスシリーズ)」

鳥越 昌 「備中そうめん・うどん・水車 盛衰記」

吉原 良一 「さぬきうどんの真相を求めて」

参考サイト:

Wikipedia、コトバンク、You Tube、百度、風傳媒、日本食糧新聞、佐賀新聞、日本農林規格協会、外務省、陝西省旅遊局、味の素食の文化センター、竹中大工道具館、世界の麺料理、e-food.jp、ifood.tv、世界史の窓、など。

参考論文:

東アジアのブックロード古代・中近世史 総論、など。

画像元サイト:

Wikipedia、Wikimedia Commons、百度百科、写真AC、food.foto、ぱくたそ、など。

アイキャッチ画像:Wikimedia Commons

kukurunbo@くくるんぼ

岡山市在住の野良キュレーター。
「まとめ小部屋」的な意味でくくるんぼ(括るん坊)です。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
食に関するコンテンツが好きです。

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