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ナマコとイリコ#1 食材の名前あれこれ

アイテム

ウメと梅。

ウメ

現代の中国語(共通語≒北京語)では、梅のことを「メィ」と発音します。梅の原産は中国です。

この梅という、後の日本食の根幹を成す食材が古代日本に伝来した時の呼び名と、現在の中国語の読みがどの程度一致しているかはわかりませんが、どうやら当時の人はこの発音を「メ」と認識したらしいです。ただ「メ」の一音だとやはり不便(たぶん芽や目と混同する)なので、前に「ウ」を付けて「ウメ」と呼ぶようになったらしいと言われています。この説では、梅は弥生時代の前期には伝来していたと説明されています。

また、漢方薬「烏梅(ウバイ)」として渡来したことから「ウメ」となったとも言われています。烏梅は現在の中国語の発音でも「ウゥメィ」となりますから、私にはこっちの説のほうがしっくり来るのですが、この説では梅の伝来は飛鳥時代頃だと言われています。

まあ実際は、弥生時代頃には既に西日本のあちらこちらに点々と生えてたけど、その実の使い道はあまり知られてなくて、奈良時代になってようやく、その利用方法が貴族とか寺社を経由して広まってメジャーになった。なんて感じかな?と思います。

山口県平生町にある岩田遺跡。6000㎡を超える西日本随一の大規模な遺跡で、しかも縄文時代中期から古墳時代晩期にかけて長く栄えた遺跡でもある。ここで梅の種が桃の種と一緒に出土している。地層年代的に弥生時代のかなり早い段階の遺物だと考えられていて、この集落に梅の木が植えられていたと考えられる。岩田遺跡は保存のために埋め戻されたため、現在は見ることができない。(画像引用元:山口県観光スポーツ文化部文化振興課 山口県の文化財

奈良時代よりのち、日本人はこの梅をこよなく愛すことになります。

今でこそ、春を告げる花は桜の花と決まってます。が、「花見」などという唐物からもの文化が広まった時点において、それは当然ながら梅の花が担っていました。当時の気候が寒冷だったのもタイミング的に良かったのかと思います。日本人は貴族は庭、庶民は広場などの身近な場所に梅の木を植え育て、皆で春の到来を喜びました。平安の頃から次第に春の花見の主役は、桜にその地位を奪われはじめます。流行りの輸入文化より日本独自の文化を見直そうとする「国風文化」が開花したためです。

唐物文化という地理的環境も民族的な複雑性も全く異なる中華文化をそのまま日本で実行した場合、どうしても無理が生じてしまうので、倭風にローカライズし始めたということです。象徴的な事例としては、ひらがな・カタカナが普及したのがこの時期です。

遣唐使が廃止されたのもこの時期です。これによって中華との交易が絶たれたと言う訳ではありません。往来のメインプレーヤーが、国家官僚から宗教家や有力商人などという、より庶民に近い階層にダウングレードされ、より広範に行われ始めていたということです。国家の主導が不要な程度に一般化したということです。

花見の花の主役も、唐物である梅から桜に交代しました。桜の原産地は実はヒマラヤなんですが、人類より早く日本列島に到達して自生していたので、日本人にとっては倭物です。また、気候的にもこの時期には温暖化が進んでいて(中世温暖期)、梅が芽吹くタイミングが暦の上で晩冬あたりになってしまったことも関係しているかもしれません。

さて、花見の主役は桜に移りましたが、各地に植樹された梅の樹には実が実が生ります。前述の通り、梅干しのレシピは奈良時代には既に広まっていましたから、各地に植樹された梅から採れる実は広く加工され、万能薬として大いに利用されました。腹痛時には当然のこと、頭痛には貼り薬として使われ、布巾に挟んで口元を隠すように顔に巻いて防毒マスクとして使われたりもしました。比較的最近の時代にはなりますが、江戸末期にコレラの流行を梅干しで防いだという話は有名です。

古代の中華料理においても梅は、塩とともに最古の調味料と考えられている。

それでは、梅干しはいつ頃から現在のように食用として消費されるようになったのか?と言えば、それは江戸時代です。

永らく万能薬として重宝されていた梅干しです。そして梅干しは携帯性も保存性も極めて高いので、武士たちにとっては必帯の薬で、征露丸の上位互換のような、ポーションのようなアイテムでした。さらに塩分と栄養価も高く、行軍や戦場でのレーション(野戦糧食)としても梅干しは大変に重宝されていました。

その武士たちが集う江戸では梅干しの需要が高く、これに目をつけたのが、領地が痩せた山地ばかりで平地が海べりのわずかほどしかない紀伊田辺藩という紀州藩の貧乏支藩で、「コメは無理でも梅なら育つ!」と領民に年貢の軽減と引き換えに梅の栽培を奨励しました。タイミングとしては堺を起点として上方と江戸を結ぶ物流の大動脈、菱垣廻船が始まっていて、領内にある、奈良時代には「室の江」と呼ばれた良港、田辺港にも寄港していました。梅を栽培して梅干しに加工し、菱垣廻船で運び、江戸で売り捌けば必ず売れる。と目論んだわけです。当時の梅は実は小さく種ばかりで果肉も薄い、現代の梅とはかけ離れた藪梅だったために、財政政策として梅干しを採用する藩はなく、紀州田辺産の梅干しは江戸の市場を独占し、目論見は大成功しました。武士の食料需要と藪梅の大量供給によって、やがて梅干しを日常的に食べる文化が全国の庶民に広まりました。

江戸時代から拡大し続けた果実採取用の梅林がみなべ町の一帯に広がる。約8万本の梅が栽培されている日本最大級の梅林、南部梅林もこの中に含まれていて、開花期には約3万人の観光客が押し寄せる。(663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

そして面白いことに、やがて列強国家と変革した日本は対外戦争に明け暮れることになるのですが、この時代においてもレーションとして梅干しが採用され、増産が急務となりました。ここで田辺の人々は大奮起して、大規模な梅園を作り梅の管理栽培を始めました。また、品種改良にも情熱を傾け、ついに皮が薄く、種が小さく、果肉がやわらかい「南高梅」を誕生させました。現在でも「日本一の梅干し」と言えば紀州産南高梅で、その生産量でも和歌山県が梅全体の6割に当たる約6万トンを生産していて、そのほとんどが南高梅です。

括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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