ウメと梅。
ウメ
現代の中国語(共通語≒北京語)では、梅のことを「メィ」と発音します。すなわち「ウメ」は外来語です。原産地は現在の中国の中部から西南部(大まかに長江流域あたり)だと言われていて、そのあたりの言葉が語源と考えられます。
この梅という、古代日本に伝来し、後に日本食の根幹を成すことになる食材の当時の呼び名と、北方系がルーツの現在の中国語(≒北京語)の発音がどの程度一致しているかはわかりませんが、どうやら当時の倭人はこの発音を「メ」と認識していたと考えられています。ただ「メ」の一音だとやはり不便(おそらく芽や目と混同する)なので、前に「ウ」を付けて「ウメ」と呼ぶようになったらしいと言われています。この説では、梅は弥生時代の前期(紀元前8世紀から紀元前2世紀頃)には伝来していたと説明されています。

また、漢方薬「烏梅(ウバイ)」として渡来したことから「ウメ」となったとも言われています。烏梅は青梅を乾燥させてから果皮が黒くなるまで燻した生薬で、中国最古の薬物学書である『神農本草経』(紀元前後、前漢~後漢期成立)に収斂作用を持つ薬物「梅実」として記載され、魏晋南北朝期の『名医別録』(陶弘景、5世紀)には「烏梅」の名称で、その製法や消化促進・止瀉・発汗などの効能が詳しく記されます。

烏梅は現在の中国語の発音でも「ウゥメィ」となりますから、耳触りからはこっちの説のほうがしっくり来ます。この説だと梅の伝来は飛鳥時代頃だと考えられています。
ここからは妄想ですが、ひょっとすると梅は丸木舟で細々と海上交易が行われていた縄文の頃にはすでに、船乗りたちの携行薬として渡来していたかもしれず、だとすれば和人がそれを欲しがり、やがて加工前の梅の実が持ち込まれ、それが植えられた。類似した事例が各地で見られ、梅の木は西日本の各地に点々と疎らに広がっていった。しかしその実の使い道は時代の変遷とともに伝承の輪から外れ風化してしまう。梅の木は半ば放置されてしまっていたが、それが奈良時代になって、貴族とか寺社を経由して、果実の使用方法がトップダウン式に広まり、ありがたい万能薬として一躍メジャーな存在に成長した。なんて感じかな?と妄想しています。

とりあえず、奈良時代よりのちの日本人は、この梅をこよなく愛すことになります。
今でこそ、春を告げる花は桜の花と決まってます。そのダイナミックで儚い様は日本の風情を語るうえで欠かせない風景です。ただし、その「花見」などという高尚な遊びは元は中華の風習(唐物文化)で、それが流行って定着したものです。日本の文化は中華の流行りものを、とりあえず何でもありがたがって真似ることから始まりました。奈良時代に広まったものは、文化や風習、宗教観や学問、社会制度に至るまで、ほぼ全てが、悪い言葉でいいますと、中華文明の劣化コピーのようでした。
「お花見」が流行った時、それは当然ながら梅の花とセットでした。当時の気候が寒冷だったのもタイミング的に良かったのかと思います。春が寒かったわけです。日本人は貴族は庭に、庶民は広場などの身近な場所に梅の木を植え育てて、皆で春の到来を喜びました。

出典:川幡穂高ほか「西日本における歴史時代(過去1,300年間)の気候変化と人間社会に与えた影響」東京大学大気海洋研究所「学術ニュース&トピックス」(2017年1月4日)掲載「第1図 西日本の気温(℃)」より引用。画像提供・掲載元:東京大学大気海洋研究所 出典: 東京大学大気海洋研究所「西日本における歴史時代の気候変化」
やがて、平安の頃から次第に春の花見の主役は、桜にその地位を奪われはじめます。気候や植生といった地理的環境も、民族的な複雑性も全く異なる中華文化をそのまま日本で実行した場合、どうしても無理が生じてしまいます。代用できるものは地元の素材を使おうといった感じで倭風にローカライズし始めたということです。
花見の花の主役も、唐物である梅から桜に交代しました。桜の原産地は実はヒマラヤなんですが、人類より早く日本列島に到達して自生していたので、日本人にとっては倭物です。また、気候的にもこの時期には温暖化が進んでいて(中世温暖期)、梅が芽吹くタイミングが暦の上で晩冬あたりになってしまったことも関係しているかもしれません。
遣唐使が廃止されたのもこの時期です。これによって中華との交易が絶たれたと言う訳ではありません。むしろ逆で、メインプレーヤーが往来の国家官僚から、宗教家や有力商人などという、より庶民に近い階層にダウングレードされて、より頻繁に、より広範に私交易が行われるようになりました。国家の主導が不要になるほど交流が一般化したわけです。この流れの延長上で後の日宋貿易やら平清盛の武家政権などがつながります。
国家主導による唐物文化の丸コピ時代が終わり交易の主役が民間に移ると、おそらく最大の理由はコストだと思うのですが、中華からの様々な文物の伝播は、そこに何らかの工夫を凝らすことで無理なくエッセンスだけを吸収する、サステナブルな輸入形式に移行しました。その効率化の過程で倭の人々は、自らの足元に落ちたり生えたりしていた石ころ程度にしか感じていなかったアイテムや、空気のように存在を意識してこなかった自分たちの古くからの慣習に価値を感じるようになりました。「あれ、俺達の周りにあるモノも意外と使えるぞ?ダッセーって思ってた俺らが習わしも、意外と俺らの『文化』ってコトにして良さげじゃね?」と、倭人たちは自らのアイデンティティに目覚めることになり、ここに「国風文化」が花開くことになりました。象徴的な事例としては、ひらがな・カタカナの普及があります。
さて、梅。花見の主役は桜に移りましたが、各地に植樹された梅の樹には実が実が生ります。前述の通り、梅干しのレシピは奈良時代には既に広まっていましたから、各地に植樹された梅から採れる実は広く加工され、万能薬として大いに利用されました。腹痛時には当然のこと、頭痛には貼り薬として使われ、布巾に挟んで口元を隠すように顔に巻いて防毒マスクとして使われたりもしました。比較的最近の時代にはなりますが、江戸末期にコレラの流行を梅干しで防いだという話は有名です。

永らく万能薬として重宝されていた梅干しですが、それでは梅干しはいつ頃から現在のように食用として消費されるようになったのか?と言えば、それは江戸時代の中期あたりからです。その頃には梅干しは各家庭にひと壺は常備されている程度には普及していたと思われます。
梅干しを普及させた最大の功労者は武士です。乾燥させた梅干しは保管も携帯もラクでしたから、携帯薬として最適。で、ダンジョンに入る前に準備するポーションのようなアイテムでした。さらに塩分と栄養価も高く、行軍や戦場でのレーション(野戦糧食)としても梅干しは大変に重宝されていました。
その武士たちが集う江戸では梅干しの需要が高く、これに目をつけたのが、領地が痩せた山地ばかりで平地が海べりのわずかほどしかない紀伊田辺藩という紀州藩の貧乏支藩で、「コメは無理でも梅なら育つ!」と領民に年貢の軽減と引き換えに梅の栽培を奨励しました。タイミングとしては堺を起点として上方と江戸を結ぶ物流の大動脈、菱垣廻船が始まっていて、領内にある、奈良時代には「室の江」と呼ばれた良港、田辺港にも寄港していました。梅を栽培して梅干しに加工し、菱垣廻船で運び、江戸で売り捌けば必ず売れる。と目論んだわけです。当時の梅は実は小さく種ばかりで果肉も薄い、現代の梅とはかけ離れた藪梅だったために、財政政策として梅干しを採用する藩はなく、紀州田辺産の梅干しは江戸の市場を独占し、目論見は大成功しました。武士の食料需要と藪梅の大量供給によって、やがて梅干しを日常的に食べる文化が全国の庶民に広まりました。

そして面白いことに、やがて列強国家と変革した日本は対外戦争に明け暮れることになるのですが、この時代においてもレーションとして梅干しが採用され、増産が急務となりました。ここで田辺の人々は大奮起して、大規模な梅園を作り梅の管理栽培を始めました。また、品種改良にも情熱を傾け、ついに皮が薄く、種が小さく、果肉がやわらかい「南高梅」を誕生させました。現在でも「日本一の梅干し」と言えば紀州産南高梅で、その生産量でも和歌山県が梅全体の6割に当たる約6万トンを生産していて、そのほとんどが南高梅です。



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