食材の名前あれこれ
ウメと梅。
現代の中国語(共通語≒北京語)では、梅のことを「メィ」と発音します。梅の原産は中国です。
この梅という、後の日本食の根幹を成す食材が古代日本に伝来した時の呼び名と、現在の中国語の読みがどの程度一致しているかはわかりませんが、どうやら当時の人はこの発音を「メ」と認識したらしいです。ただ「メ」の一音だとやはり不便(たぶん芽や目と混同する)なので、前に「ウ」を付けて「ウメ」と呼ぶようになったらしいと言われています。また、漢方薬「烏梅(ウバイ)」として渡来したことから「ウメ」となったとも言われています。烏梅は現在の中国語の発音でも「ウゥメィ」となりますから、私にはこっちの説のほうが簡単です。
その後、日本人はこの梅をこよなく愛しました。春を告げる花は今でこそ桜の花ですが、日本史の初期において、それは梅の花の役割でした。当時の気候が温暖だったからでしょうか、貴族から庶民まで桜の木を身近な場所に植えては春の到来を喜びました。平安の頃から次第に寒冷化が進む頃になると花見の方は桜にその地位を奪われます。しかし各地に植樹された梅から採れる実は加工して梅干しにされ、万能薬として大いに利用されました。腹痛時には当然のこと、頭痛には貼り薬として使われ、布巾に挟んで口元を隠すように顔に巻いて防毒マスクとして使われたりもしました。江戸末期のコレラの流行を梅干しが防いだ話は特に有名です。

現在のように食用に梅干しが消費されるようになるのは江戸時代になってからのことです。それまでは庶民には薬として重宝されていた梅干しですが、戦国の武士たちにとっては塩分、栄養価、保存性、携帯性などにおいて、行軍や戦場でのレーション(野戦糧食)として梅干しは大変に重宝されていました。その武士たちが集う江戸では梅干しの需要が高く、これに目をつけたのが、領地が痩せた山地ばかりで平地が海べりのわずかほどしかない紀伊田辺藩という紀州藩の貧乏支藩で、「コメは無理でも梅なら育つ!」と領民に年貢の軽減と引き換えに梅の栽培を奨励しました。タイミングとしては堺を起点として上方と江戸を結ぶ物流の大動脈、菱垣廻船が始まっていて、領内にある、奈良時代には「室の江」と呼ばれた良港、田辺港にも寄港していました。梅を栽培して梅干しに加工し、菱垣廻船で運び、江戸で売り捌けば必ず売れる。と目論んだわけです。当時の梅は実は小さく種ばかりで果肉も薄い、現代の梅とはかけ離れた藪梅だったために、財政政策として梅干しを採用する藩はなく、紀州田辺産の梅干しは江戸の市場を独占し、目論見は大成功しました。武士の食料需要と藪梅の大量供給によって、やがて梅干しを日常的に食べる文化が全国の庶民に広まりました。

そして面白いことに、やがて列強国家と変革した日本は対外戦争に明け暮れることになるのですが、この時代においてもレーションとして梅干しが採用され、増産が急務となりました。ここで田辺の人々は大奮起して、大規模な梅園を作り梅の管理栽培を始めました。また、品種改良にも情熱を傾け、ついに皮が薄く、種が小さく、果肉がやわらかい「南高梅」を誕生させました。現在でも「日本一の梅干し」と言えば紀州産南高梅で、その生産量でも和歌山県が梅全体の6割に当たる約6万トンを生産していて、そのほとんどが南高梅です。

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