イノシシと猪、ブタと豚。
猪は「イ(ヰ)」でした。猪はユーラシア大陸の平地に広く生息していて、日本も原産地に含まれていて、古くから狩猟の対象でした。「ヰ(ゐ)」は今の表記なら「ウィ」に近い発音の字なので、猪の鳴き声から名付けられたのかもしれません。猪の現在の中国語読みは「ヂュー」みたいな発音なんで、「イ(ヰ)」は倭語だと思われます。
「シシ」は肉という意味です。ですから現在の「イノシシ」は「猪の肉」という意味の名前です。動物園のイノシシの檻の前に立ったときにこの言葉の成り立ちを思い出せば、精肉売り場のジビエコーナーにいる気分を味わうことができます。私は罠で猟をされている方から山の幸を頂くことがあるのですが、そのイノシシ肉は、スーパーで売られている豚肉よりも味が濃厚で肉質もしっかりしています。食べ比べをすると豚肉が水っぽく感じてしまいます。
猪を家畜化したブタは、ブーブーという鳴き声の擬音「ブ」と、太っているを表す「タ」でできているようです。この単語の成り立ち方はいかにも倭語です。また、この名前からブタが家畜として人と極めて近い居住空間で飼われていたことがわかります。弥生時代の遺跡からは、猪の骨に混じって豚の骨が出土したり、家畜ブタの痕跡が発見されるそうなんですが、家畜化していく変遷の過程、つまりイノブタの骨が出土しておらず、豚は大陸から持ち込まれた家畜と考えられています。外来種なのに倭語?ブタは意外とナゾ多き家畜です。

ちなみに中国ではブタを表す漢字は「猪」で、イノシシを表す時は「野猪」と書きます。「豚」という字もありますが、現在はフグ(河豚魚)やイルカ(海豚)くらいにしか使いません。元々「豚」は小ブタを表す字だったそうです。確かに「豚」から肉月を取った「豕」は「いのこ」と読みます。これは「猪の子」だからですね。豚を中国語で読むと「トゥン」で、日本の「トン」とほぼ同じです。
豚を飼う場合は、今でこそ配合飼料などで育てていますが、つい最近まで、人間の糞尿や調理の際に出る野菜くずなどのゴミをなどを食べさせて育てていました。ボットン式のトイレの下が飼育小屋になっているイメージでOKで、人々はキッチンのゴミを投げ入れたり、用を足しながら下を覗いては「あのブーはもう少しでタになるなぁ」などと食べ頃を料っていたのかもしれません。現在のブタは栄養たっぷりの飼育肥料で育てますので、5、6ヶ月の飼育で精肉されています。現代に生きる我々が、仮に「このブタ野郎!」という罵り言葉を使う場合には、出荷してもいいんじゃないか?と思えるほどに肉付きが良くて、ブーブーと不平などを常時撒き散らしているような方に対して用いるのが適切だ。ということになります。かなり使える範囲の狭い罵り言葉ですね。
生粋の家畜であるブタの好まれる点は、一頭のメス豚が一年に20から30頭の子豚を産むという繁殖力の高さと現代の養豚技術を使えば生後180日には出荷できるというサイクルの速さです。嫌われる点は、草食動物ではないために人間と食べる物が重複する点です。調理ゴミや人糞で養えきれればいいですが、それ以上の匹数になると人間と食料の取り合いになります。
先程の、豚とブタという言葉の異質な感じの、多分直接的な理由なんですが、歴史的に日本での豚を取り巻く環境は、ちょっと他の動物とは違っていまして、豚は仏教の殺生禁断の思想の広まりによって一旦、完全に日本から絶滅したんですね。仏教が浸透したお陰で獣肉食いがタブーになったとは言え、鶏は鶏卵目的で飼育を継続できましたし、馬や牛は役用に使えます役用に耐えなくなった牛馬を飼育し続ける余裕はありませんから、そういった個体は速やかに処分するしかありません。猪や兎に至ってはそもそも野生です。田畑を荒らすために駆除はしなければならず、殺したまま放置すればクマやら狼が来ますから食処分するしかありません。そんな中で、豚は食肉用の家畜ですから、卵を産まず、役用に使えず、野生化する前に生存競争から脱落してしまいました。結局、長い空白の時間の後、豚が再び日本に上陸したのは江戸時代になってからで、さらに、大っぴらに養豚が始まるのは明治時代になってからのことです。この時代の日本には中国に対してかつてのような謙虚な心持ちはありませんから、独自に漢字を当てたり、当時の「今風」の呼び名を付けたのでしょう。

コメント