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海苔#1 うっぷるい海苔

アイテム

ついに山本山の現在のメイン事業である海苔について考察します。

ただ、海苔の世界は奥深く、例によってまずは「そもそも論」、つまり「海苔」という食品全般についての理解を深める作業から進めることにします。

したがって、しばらくの間、「山本山」について語ることができません。山本山は茶商としては三百年来の歴史を持ちますが、一方で海苔商としての歴史は戦後になってからなので、海苔の歴史などを書いている段階では登場しようがないのです。そこで一旦「山本山」のシリーズを区切り、「海苔」のシリーズを挿入する形で話を始め、後に適当なところで二つのシリーズを合流させることにします。

後に昭和のナショナルブランドとなる「山本山の焼き海苔」。海苔が贈答品の定番だった時代、山本山の「あさくさ」はお歳暮の王様だった。

も(藻)

海苔は、藻類の一種、つまり藻です。

海苔の話を、まずは「も(藻)」という言葉から始めたいと思います。

アオサノリ(ヒトエグサ)の養殖場。アオサノリの主な産地はリゾート地として名高い伊勢志摩の複雑なリアス海岸で、真珠で名高い英虞湾、牡蠣で有名な的矢湾、五ヶ所湾の各所には、海苔粗朶(のりそだ)や海苔篊(のりひび)と呼ばれる海苔網が広がっている。(写真AC/よしかっぱ)

わたし達は「藻類」または「藻」という言葉を聞くと、何となく、濃い緑や焦げ茶色のヌルっとした、全般的に似通った印象を持つ水中の植物群を何となくイメージできると思います。

日本では古代から、水の流れに身を任せて柔らかく動く水生植物のことを「も」もしくは「もは(藻葉)」と総称していて、その「も」中でも特に海中のもの、つまり海藻のことを「め」と呼んでいたそうです。ワカメのメがそれですね。

ワカメは日本では食用植物として広く栽培され、年間約20万トンが消費されている。しかしワカメは侵略性が強く、成長が早く、在来の海藻を覆い尽くして駆逐する可能性があるため、世界的には「害藻」とみなされている。写真はオーストラリアで発見されたもの。(CSIRO, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

「も」にしろ「め」にしろ、古代から日本人は藻類にかなりポジティブな印象を持っていたようです。

例えとして適当なのか疑わしいですが、平安時代の貴族女性の装束である十二単において最も特徴的な、歩くときにズリズリと後ろに長く引き摺る帯のようなものの名前は「も(裳)」です。

また、それ以前の奈良時代における貴族女性の正装は、超ロングのプリーツスカートのようなもので、やはりこれを履いて引き摺って歩いたのですが、このスカートの名前も「も(裙)」です。


左側は大阪歴史博物館の展示されている奈良時代の威儀命婦いぎのみょうぶの礼服姿(復元)。右は鎌倉時代に描かれた裳唐衣もからぎぬ衣装の源倫子(藤原道長の正室)。裳唐衣は俗に言う「十二単じゅうにひとえ」。(左:薔薇騎士団, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons , 右:『紫式部日記絵巻断簡』, Public domain, via Wikimedia Commons)

これらの「も(藻、裳、裙)」たちが果たして音素として同源なのかはわからないのですが、水中で揺らめく「(水草を含む)藻」を尊ぶ価値観が古来から日本人的な価値観の根底にあったと想像すると、同根のように思えます。

厳藻

現在の出雲平野を中心に古代の日本において絶大な勢力を誇った古代出雲王朝では、藻類が神聖視されていたとも言われています。

そもそも「出雲」という名前が「いつも(厳藻=神聖で美しい藻)」から来ているという説すらあります。そんなアホな!と笑ってしまいそうな話ですが、驚いたことに諸説ある中ではまあまあ有力な部類に入る説なんだそうです。

日本書紀の神代上のくだりには簸川(肥河=ひのかわ)が高天原から追放された素戔鳴尊スサノオノミコトが地上に降り立った場所として登場します。この川は現在の島根県の斐伊川(ひいかわ)のことで、歴史書に登場する実在する最初の河川であり、素戔嗚尊が退治した八岐大蛇のモデルとなったとも言われる「暴れ川」です。

斐伊川の歴史と変遷。斐伊川の上流は風化しやすい花崗岩地帯で、ただでさえ土砂(ボロボロに崩れた花崗岩)が流れ込みやすい「砂川」だったのだが、出雲では古代から砂鉄の採取が盛んだったため、「鉄の国」としてのアイデンティティとその営みが、トレード・オフとして、斐伊川を八岐大蛇という危険極まりない怪物に育てていた。(Rijikk, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

同じ日本書紀の崇神すじん天皇のくだりには、出雲国が大和政権に従属するストーリーの一部に、斐伊川の止屋淵やむやのふちという場所が登場しています。当時の出雲国では振根ふるねという人がトップだったのですが、出雲を征服したい大和政権は、彼の弟を懐柔して兄弟を仲違いさる謀略を巡らせます。まんまとムカ着火ファイヤーした振根ふるねは、「菨(も=川藻)が止屋淵やむやのふちにめっちゃ生えてるらしいぜ!見に行こうや!」と弟を誘い出し、「ここの水、マジでキレイやし冷え冷えで最高やで!泳ごうや!」と丸腰にさせてから斬り殺します。そして、無事に「ナニ勝手に俺等の仲間ブッ殺しとんねん!」という侵攻の大義名分を手に入れた大和政権は、報復として出雲を軍事占領するのです。

「菨」はアサギ、もしくはアサザとも読めるが、アサザは睡蓮のような浮遊性の水草。若葉は食用になるが、「アサザがいっぱいある」と言って出雲人を果たして誘き寄せることが出来ただろうか。そもそも私はアサザの群生地で泳ぎたくはならない。(Krzysztof Ziarnek, Kenraiz, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

このお話、振根が弟を釣り出すために「川藻が沢山あるから行こう」と提案している点がここで取り上げる理由で、このストーリーを考えた大和の吏僚たちは、現代の私達が「島根県の名産品は?」と尋ねられて真っ先にシジミが思いつくように、「出雲と言えば川藻でしょ~!」と連想してこの創作をしたのか、若しくは「まあ、出雲人はめっちゃ川藻が好きだからね~(笑)」と、讃岐人のうどんに掛ける情熱のようなものを下敷きにこの話を作ったのか、はたまた川藻の群生地に対して、現代に生きる我々が松茸の群生地に対して感じるような、すぐにでもスッ飛んで採りに行きたくなるような魅力を大和の人間も持っていたのか…などと様々な想像ができるのです。

徳島県の吉野川が特に有名な天然のスジアオノリ。スジアオノリは西日本の河川の下流域、特に河口付近に分布する青のりで、乾燥させてから細かく粉末状に砕いて製品にする。スジアオノリは色味も風味も素晴らしいが、非常に高価な食材で一般にはほとんど流通していない。お好み焼きや焼きそばなどの上に掛ける青のりはアオサノリ、味噌汁やだし巻き玉子に入っている青のりはアオサだ。スジアオノリの主な用途は、意外なことに「青のり」味のスナック菓子。

そして、この止屋淵にはどんな藻が繁茂していたのかを想像してみるのですが、例えば、澄んだ急流でのみ生育する、今では「幻」と呼ばれるほどに希少なカワノリが広がっていたと仮定してみると、色々と辻褄が合う気がします。実際のところは当然ながらわからないのですが、カワノリでなくても、きっと飛んで行きたくなるような美味しい川藻が河底一面に漂っていたのでしょう。

カワノリは九州から関東にかけて太平洋に注ぐ河川の上流にはだいたい生育しているのだが、渓流での収穫はとても商業ベースに乗るものではなく、市場に流通することはまず無い。まさに幻の食材と言ってよいが、その歯触りは海苔よりも強く、その風味は緑茶や抹茶に近く、絶品と賞される。

さらに、出雲のある島根半島は古めの地層が海底から隆起してできたもので、地質は固くて脆い傾向があります。それが一年の半分は大陸からの寒波による大時化が日常の荒海に面しているわけで、海岸には波のパワーによって削られた様々な「海食作品」が並べられています。波力によって作られる景色なので、波が当たる場所はガシガシに削られますが波の影響が及ばない海中は浸食されません。結果として海岸は深くえぐられ切り立った崖が続き、海面下は削り残された跡がテーブルのように平らに続いています。この地形を海食崖と海食台(海食棚)と言いますが、この地形と冬場の厳しい気候が海藻の生育に最適で、しかも海食台は平らですから極めて危険ではありますが人が歩いて収穫作業ができる良い収穫場でした。つまり出雲は古くから海苔やワカメ(「め=海藻」)の産地としても名を馳せていた土地でした。

当然ながら、今でも島根県は岩海苔(天然海苔)の主要産地です。さらに、岩海苔の最高級品は「うっぷるい(十六島)海苔」と言うのですが、このうっぷるい(十六島)は島根半島西端の小さな岬の名前で、出雲大社のほぼ真北に位置しています。

十六島(うっぷるい)の東隣にある小伊津海岸。海食崖と海食台が織りなす作品の一つ。この洗濯岩も実は「のり島」であり、11月から3月までは一般客の立入は禁止される。

うっぷるい海苔

うっぷるい海苔は出雲国風土記にも出てくるほどの歴史を持ちます。つまり古代出雲王朝の時代にはすでに名産品として重宝されていたと考えられます。

奈良時代に中央集権国家を目指した朝廷によって、各国に風土記の編纂が命ぜられた。朝廷は風土記によって各国の諸情報を知り、地方統治の指針を決定した。風土記のデータを元に制定された大宝令により、日本は68の令制国に区分けされ、律令国家となった。現存する風土記は播磨、肥前、常陸、豊後、出雲の写本だけだが、中でも出雲国風土記の写本のみは、ほぼ完本で残されていると見なされている。写真は鎌倉時代後期に書写されたと考えられている肥前風土記の写本で、猪熊家旧蔵の国宝「猪熊家本」。(Japanese calligraphers of the Heian and Kamakura periods; I created the files, Public domain, via Wikimedia Commons)

「うっぷるい(十六島)」という名前からは、何となく日本語離れした、まるでアイヌ語のような響きが感じられるのですが、実際に「ウップ」と「ルイ」という単語がアイヌ語にはあるらしく、ウップは「鵜の集まる所」や「松の木」を、ルイは「高い」や「多い」を意味するそうで(結局よくわからない)、「うっぷるい」がアイヌ語だという説があります。他にも「うっぷる」が古代朝鮮語の「波の激しい港」であるとする説や、そもそも、蝦夷えみしと出雲人はもともとアムール川流域が拠点の北方騎馬民族で、彼らの一部が日本に渡り同化したのだとする「蝦夷ツングース説」などもあります。

無論、奈良時代以前の日本に文献はほぼ皆無ですから、それ以前の時代の歴史的考察の多くは憶測の域を出ることが出来ず、そのぶん空想も膨らみ放題だとも言えるのですが。いずれにせよ「うっぷるい」は倭語ではない体系の、アイヌ語や蝦夷語、朝鮮語などに由来する言葉だった可能性があるわけで、つまりかつて島根半島北部のいちエリアが他民族の居住(支配)エリアだった可能性があるということになります。

ツングース諸語の分布図。この赤で塗られた南ツングース諸語ナナイ語群が「出雲蝦夷大陸騎馬民族説」の論拠となる騎馬民族。20世紀初頭に北海道網走市の周辺で、このツングース語系のウィルタ語(オロッコ語)を話す人々が実際に確認されている。(Maximilian Dörrbecker (Chumwa), CC BY-SA 2.5, via Wikimedia Commons)

かつての日本海には古代人たちが小型船を操って頻繁に行き来していたのは確かなようですし、糸魚川のヒスイや隠岐の黒曜石など、小型ボートに載せれる程度の小さな特産品で交易をしていたと考えられています。日本海沿岸には毛人(≒蝦夷やアイヌ)、筑紫(≒九州)、高句麗や沃沮よくそ(≒朝鮮)、さらには粛慎しゅくしん挹婁ゆうろう(≒渤海)、といった様々な民族や国が勢力を伸ばしていましたから、それぞれに港や港町を有していて、交易圏(環日本海交流圏)を形成していたとも考えられていて、どうやら出雲もその参加勢力だったと考えて良さそうです。空想ですが。

そして、その際に出雲は海苔を交易品として載せていたのかもしれません。出雲と言えば「くろがねの国」。大和政権も後に出雲の剣を神器としましたし、出雲を出港するボートには鉄製の剣が載せられていたでしょうが、可能性として、それが海苔だったこともあったかもしれません。鉄は重いですからね。空想ですが。

斐伊川下流域にかかる沈下橋、井上橋(いあげばし)。斐伊川は上流に風化した花崗岩帯があり、赤砂(崩れた花崗岩)が供給され、氾濫を起こしやすい素養があった。その上、古来より盛んに行われた「たたら製鉄」と、砂鉄採取のために江戸時代に始まった「鉄穴かんな流し」によって、さらに大量の赤砂が人為的に供給された。斐伊川の下流域では、過剰に堆積した砂によって砂州が網状に発達していて、渇水期になると川の水(表流水)は無くなり、砂だけが広がる砂河川となる。赤砂は更に風化が進むと「マサ土」となるが、いずれにせよ養分は皆無で、斐伊川は下流でも生物相が極端に希薄でよく澄んでいる。(© 2019 kukurunbo)

出雲はやがて、前述の日本書紀のストーリーに書かれたように、大和政権に屈し、都に貢納を始めます。さらに奈良、平安時代になると、調(ちょう=税)として様々な物品を朝廷に納める義務が生じました。毎回の納税が命じられたのは13品目で、その内7品目が海産物、そしてその海産物の一つがうっぷるい海苔でした。さらに後の江戸時代にはうっぷるい海苔は松江藩によって将軍へも献上されるようになりました。納税や献上された先では、ハイソな方々によってうっぷるい海苔は「かもじのり(髢海苔)」という名で呼ばれていたそうです。

うっぷるい海苔(出典:農林水産省「にっぽん伝統食図鑑」十六島のり(うっぷるいのり)

かもじ(髢)とは、宮中の女房言葉で、現在の「部分ウィッグ」のことです。髪を結い上げる際に付け足してボリュームを出したり、形を整えたりするためのもので、部分的な増毛に使われていたものです。「髢海苔」という名前は、うっぷるい海苔の黒くつややかな見た目が髢に似ていたことから付けられたようです。うっぷるい海苔が如何に支配者層に愛されていたかたが伺えるのですが、実際に髢としてうっぷるい海苔が使用されたわけではないようです。

歌川国貞の錦絵に描かれた長髢を持つ女性。髢の素材は牛の尾毛が使われることもあったが基本的に人毛。江戸時代になり髢文化が庶民に広まると、髢の素材が慢性的に不足。町を徘徊し抜け毛を回収する職業が出現。彼女らは「おちゃない(落ち買い)」と呼ばれた。(『江戸名所百人美女 大音寺まへ』より抜粋。Utagawa Kunisada, Public domain, via Wikimedia Commons)

うっぷるい海苔が庶民にまで名が知られるようになったのは、江戸時代に出雲大社の御師(おし≒観光ガイド兼プロモーター)が布教活動の際に縁起物としてお札と一緒にこれを配りはじめてからです。つまりは出雲大社のノベルティーマーケティングがきっかけで広く認知されたわけですが、「正月の雑煮に入れて食べれば、その年の邪気を払い、難病を逃れる事が出来る」という機能性表示食品マーケティングの手法も同時にとっていたために、この雑煮も一部地域で慣習化しました。

出雲大社の社領は、幕府からの朱印地ではなく、松江藩からの黒印地として安堵されていたため、実質的に松江藩の支配下にあり、大社御師が全国に檀那(信者)を求め、配札や参詣の世話を行うことで得た収益は、松江藩の重要な経済資源となった。明治以降は国家神道の枠組みの中で「表」の伊勢神宮と対を成す「裏」の神社として出雲大社教が成立。分院や分祠が全国に整備され、巡回型・出張型から常設型へ布教活動が変化した。現在、出雲大社の分院や分祠および教会所は、北海道から沖縄、さらにはハワイやマレーシアなどの海外にも広がり、約200箇所以上が存在する。その神威と信仰の厚さは今をもって極めて特異である。写真は慶長一二年築造の松江城天守(国宝)。(島根県, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

このうっぷるい海苔と餅だけの極めてシンプルな雑煮は、山陰で定番のあご出汁、つまりトビウオを焼いて乾燥させた、クセが少なくすっきりとした旨味の出汁と合わせることで、うっぷるい海苔の魅力が最大限に発揮できるレシピの一つで、非常に上品で恐らく一度食べたら記憶に残る逸品です。

うっぷるい海苔は出雲の地域ブランド品として広く庶民に認知されることになったわけですが、現在でも高級海苔の代名詞と言えばうっぷるい海苔です。その理由は一にも二にもまず岩海苔であること。養殖の海苔と比べて生育環境が非常に厳しいために歯応えが強く風味が濃厚です。しかも収穫できる場所と時期が極端に限定されていて、収量が極めて少ない上に安定ておらず、レアリティ・バイアスによってプレミアムがつきやすい傾向にあるためです。

青森県大間町の大間岬の先に浮かぶ無人島、弁天島で採れる「島海苔」は、年に数日しか採取できず採取者も2軒のみという、希少性が極めて高い岩海苔。地元の消費で完結してしまい市場に出回らないため「幻の岩海苔」と呼ばれる。(画像:大間観光情報サイト大間わいどアップ「弁天島と大間埼灯台」より引用)

十六島のある島根半島の日本海側の海岸線には、砂岩と泥岩のミルフィーユ(互層)が波の侵食を受けて出来た、いわゆる「洗濯岩」のような景色があちこちに散在しています。十六島の海岸も同じで、洗濯岩のように平坦な海食台が波際に広がっています。そしてその岩の高さが、満潮時にもギリギリ海面に没してしまわない程度のちょうど良い高さのモノが多く、これを波食台(潮間帯ベンチ)と呼ぶのですが、これが冬場に日本海の大波に曝されることで海苔にとって最高の成育場となるのです。

シーズン以外の時期は一般の人も自由にのり島を利用できる。釣り人は、こういった陸に繋がっていて徒歩や車でアクセスできる磯を「地磯」と呼んでロマンに浸りながら糸を垂らす。

さらに十六島は島根半島から犀の角のように突き出している大変に潮通しの良い岬で、冬場は北斎の浮世絵をリアルで再現したようなエグい荒波がダイナミックに打ち寄せる場所です。シーズンになると十六島の波食台という波食台は日本海の飛沫を浴び続け、そこにビッシリと海苔が繁茂します。まさに髢を付けたように真っ黒な磯場になるわけです。ただし、近年では温暖化の影響からか冬の海は穏やかになる傾向が見られ、大時化シケが減ってきていて、植毛範囲は年々減少しているようです。

動画では伝わりにくいが、この作業、行われている季節は真冬である。収録されたような穏やかな天候ばかりではないはずだ。

うっぷるい海苔は、波食台の高さによって、低い台では水面に掌を浸して握るとちょうど海苔が掴みやすい潮位を狙って手で摘み取られ、高い台では干潮時に岩の上に露出して自然に日干しになったものをベリベリと剥ぎ取る「剥ぎ海苔(ハギノリ)」という方式で収穫されます。

剥ぎ海苔の様子。摘み海苔に比べて効率がかなり良いように見えるが、どちらも経験と技術が必要な職人技であることも見て取れる。

現在では、波食台の多くは危険箇所がコンクリートで補形され、収穫場(のり島、のり畑)として作業しやすいように整地されていて、さらにゴム長靴にゴム手袋、透湿防水レインウェアなどで武装していますので、古代から想像すると比較にならないほど作業が楽になってはいます。が、それでも海苔の収穫シーズンは厳冬期。荒波や強風がデフォルトのツルツルの波打ち際でひたすら中腰で海苔を摘むのです。人気の職業とはなり難く、スムーズな世代交代は厳しいでしょう。また、地球温暖化による気象的な環境変化も深刻で、この先、さらに市場価格が高騰する一方で収量は減少し、いずれかの時点で市場に出回らなくなる可能性すらあります。

非常に高価な食材で、日常食にはなり得ないうっぷるい海苔ですが、お正月に大社式のお雑煮で新年の始まりを贅沢に祝いながら、邪気を払ってみてはいかがでしょうか。

参考文献

宮下章「海藻 ものと人間の文化史」

二羽恭介「ノリの科学 」

参考サイト

山本山、Wikipedia、weblio、wiktionary、コトバンク、千葉県立中央博物館 分館 海の博物館 海の生き物観察ノート17 ノリを知ろう、化粧の日本史ブログ by Yamamura 江戸時代はリサイクル社会。髪の毛も回収されて「つけ毛」として販売されていました!八雲の空 岡本雅享の出雲学I love traveling in Japan 下北半島・函館弾丸2泊3日旅行: 2日目〜いざ、津軽海峡を往く大間観光情報サイト大間わいどアップ 弁天島と大間埼灯台松江市史講座第106講 天皇に捧げられた品々と古代出雲 ~松江市史から古代出雲を考える~ 島根県古代文化センター主任研究員 古松大志、仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル 隠し名物 大間の島海苔志摩市 志摩の自然風景 伊勢志摩国立公園の自然、三重県漁業共同連合会みえぎょれん 三重県のお魚図鑑 アオサ目の魚芙蓉地質 地盤情報 土と岩の話 花崗岩とまさ土国土交通省 水管理・国土保全 斐伊川、出雲國たたら風土記 鉄の道文化圏 「たたら製鉄」と生活・環境、出雲の歩き方 止屋の渕|イズモタケルの正体とは!?斐伊川での決闘は誰と誰が行ったのか、そこまでお散歩ちょっとひと息 「日本書紀」を読んでみよう❗ (41)崇神天皇 出雲振根しまね原子力広報 アトムの広場 No.134 コラム 第8回 島根半島の海岸地形日本神話・神社まとめ 肥河編纂1300年を迎えた 古事記の神話 出雲国風土記日本河川協会発行 メールマガジンより松田芳夫の「河川こぼれ話」【36】歴史に登場する最初の河川ぎんざ空 也空いろ 空也について、山彦耀Ⅱのブログ 大阪歴史博物館「難波宮大極殿」さんいんまなび 日本最古の海苔!?十六島海苔が美味しすぎた件島根のだしと海藻の専門店 岩のり工房[歴史館]・・日本古代史とアイヌ語・・十六島・ウップルイ、地質研究室へようこそ 越前海岸・地学ガイド2.奇岩が続く海岸風景にかくされた新事実とは?島根半島・宍道湖中海ジオパーク小伊津こいづ十六島うっぷるい砂泥互層さでいごそう原子力規制委員会 3.島根半島の海岸地形の形成要因に関する検討、一般財団法人海苔増殖振興会 海苔の豆図鑑、海の森づくり推進協会 スジアオノリ、四万十市観光協会 四万十川の海苔、出雲観光協会 出雲観光ガイド 十六島(うっぷるい)、ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑 ウップルイノリ、デイリーポータルZ 玉置標本 佐渡島の岩海苔を摘んで伴海苔(板海苔)を作る食文化を体験した、株式会社海産物まつむら ここが違うよ。十六島海苔、日本財団 海と日本PROJECT in しまね 出雲国風土記にも記された十六島海苔野田恵剛 古代漢語借用語と日本語の系統論古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平 記紀万葉における「出雲」とは何か日本書紀について、島根県古代文化センター いまどき島根の歴史 第125話 あせり池と止屋淵、しまね観光ナビ 出雲の語源、YouTube山ちゃんてぃーびー¦山森漁業部、YouTubeDLE Channel、YouTube平田本陣記念館など。YouTubeJR西日本公式チャンネル、YouTube中京テレビNEWS、YouTube高知さんさんテレビ、YouTubeまぁ〜ちん【歴史・散策チャンネル】、など。

画像、動画元サイト

山本山、Wikimedia Commons、農林水産省「にっぽん伝統食図鑑」、写真AC、大間観光情報サイト大間わいどアップ、YouTube齋藤広道、YouTube音のソノリティ【公式】チャンネル、YouTube山陰釣りチャンネル、YouTubeHarpia Amazon、YouTube野食ハンター茸本朗(たけもとあきら)ch、YouTubeKUTVテレビ高知、Instagramマルハマ食品公式アカウント、など。

括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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