麦縄
索餅と麦縄、別物になる。
「索餅」が「素麺」に変化したことは書きましたが、それじゃあ同じ意味である「麦縄」はどうなったかといいますと、これもまたおもしろい。室町時代にそうめん屋ができたと書きましたが、つまり、宮中の供物に用いられる超ハイソなレシピであったそうめんが、室町期には都の公家以外の人々の口にも届くまで大衆化していたいうことです(あくまで都人が対象であって、庶民の口まではまだ届きませんが)。そのため、練った生地にごま油を塗りながら伸ばしていくという手延べ方式では製造に手間がかかるので、生地を薄く伸ばしてから細く切ることで工程を簡略化した「切りめん」でもそうめんを作るようになりました。

で、実はこの「切りめん」って、結構重要な技術的な確信が揃わないと実現しなかったりします。第一に「切る」という革命的な技術です。
刀がいっぱい増えたので、麺を切ってみた。
この製造方法の革命は、鎌倉以降の武家社会の成立、戦乱が日本各地で常態的に発生していたことによって、鉄器という軍事物資を製造、補修するための技術者が行軍に合わせて各地を巡回するようになり、やがて彼らは平時には荘園などから農具の刃先などを受注するようになります。やがて郷中に鉄器がある程度普及する頃になると鍛冶職人たちはポツポツと定住を始め、鍛冶場を持つのですが、さて、刀剣の技術も彼らによって民事に転用されるようになります。鉄製の包丁が緩やかに登場し始めます。実際、宮中以外で料理に刃物が使われるようになったのは室町時代からで、その形状は「脇差」を薄く打ったのようなものでした。

この脇差というか、極細のナタのような包丁が、現在のような和包丁に変化するのは江戸中期くらいからで、日本には永らくこのドスのような長包丁しかなかったようです。まあ、庶民は多分、戦場あとに武器などを拾いに行ったり行かされたりして、運良く手頃な欠片を見つけては、それを懐に入れて自宅に持ち帰って研いで使ってたりしたんでしょうかね。
カンナが日本にまな板を降臨させる。
そして第二の革命的な技術は台鉋(カンナ)の登場です。
それまでの釿(チョウナ)や槍鉋(ヤリガンナ)は、技能の習熟に相当な熟練を必要としましたし、当時の工匠たちの技能をもってしても、完璧な平面を持つ木板を作ることはほぼ不可能でした。つまり、台鉋がなければ麺を伸ばす「のし板」が作れなかったわけで、ここでも刃物の大衆化が木工技術を飛躍させています。
台鉋はノコギリとほぼ同時の室町期に中華から伝来しました。台鉋ははじめは木工小物の仕上げ用に持ち込まれましたが、時流に乗って大衆化すると用途や目的によって大小様々に形状を分岐し変化させ、日本の建築に革命をもたらしました。

このノコギリとカンナという革新的な木工ツールの登場によって、歪みのない平滑な木板が作れるようになりました。まな板、のし板の使い勝手も格段に向上しました。
これらの「切る」ためのテクノロジーが揃ってきたことで、伸ばすしかなかった製麺に、切り揃えても製麺ができるという選択肢がうまれました。
そして庶民食「ひやむぎ」が誕生。
ただ、
この切りめん方式で作るそうめんですが、手延べのものと全く同じには作れませんでした。製造工程が全く違いますから、出来上がった製品は似ていても本質的には別物でした。手延べのものと比較すると、どうしても麺の細さで見劣りがして、風味もモッチャリとして麺離れが悪かったのです。水で冷やして締めてから食べるにはOKでしたが、温めて食べるには適しませんでした。
そういったことから、名前がそうめんと差別化され、主に「きりむぎ(切麦)」と呼ばれるようになりました。切麦は必ず冷やして食べるため、お店のメニューには「ひやむぎ(冷麦)」とだけ書かれたのでしょうか、やがて「ひやむぎ」の呼称が一般化しました。

参考文献
山田 昌治 「麺の科学 粉が生み出す豊かな食感・香り・うまみ」
小川 直之 「日本の食文化 3 麦・雑穀と芋」
芳賀 登・石川 寛子 「全集日本の食文化 第3巻 米・麦・雑穀・豆」
安藤 剛久 「乾めん入門 (食品知識ミニブックスシリーズ)」
鳥越 昌 「備中の水車風土記」
鳥越 昌 「備中そうめん・うどん・水車 盛衰記」
吉原 良一 「さぬきうどんの真相を求めて」
参考サイト
Wikipedia、コトバンク、You Tube、百度、日本食糧新聞、日本農林規格協会、味の素食の文化センター、竹中大工道具館、世界の麺料理、e-food.jp、世界史の窓、武蔵野市、LC-lab(ローカルカルチャーラボ)、有識料理萬亀樓、特選ひやむぎきわだち、など。
画像元サイト
Wikimedia Commons、宮内庁、写真AC、特選ひやむぎきわだち、など。



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