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ナマコとイリコ#2 中国がナマコ好きになるまで

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中国(語)ではナマコは「海参」と書きます。「海の朝鮮人参」という意味です。日本での当て字、「海鼠(海のネズミ)」とはエラい違いです。

中華料理の中で、ナマコという食材が如何にスターダムに上り詰めていったか、今回はそんなお話です。

中国でナマコが食材としてメインストリームに登壇したのは、だいたい16世紀ごろです。それは、世界史の中では大航海時代の黎明期と重なります。ちょっとナマコというイチ食材を語るには大げさ過ぎる風呂敷を広げる感じにはなるんですが、まずはそこらあたりの歴史的な話から始めたいと思います。と、言うか、今回のお話は、ほとんどこの時代の解説です。

先に結論をフラッシュしておきますと、当時の中国、王朝では、スペインポルトガルの商船がを満載して引っ切り無しにやって来ては、絹織物や陶磁器なんかを大量に言い値で買い漁っていました。この結果、明朝でバブルが起きてナマコがスーパーライジングするのですが、そこまでの流れをこれから解説していきたいと思います。

あれ?最近やたら南蛮船が来ねぇか?

銀が来た。

アジアの海の覇者であるポルトガルはマカオを終点とするアフリカ周りのインド航路(香辛料貿易)を独占し、南米の覇者であるスペインはマニラを拠点とする太平洋航路(アカプルコ貿易)を確立して、それぞれが次々と中国に大量の銀を持ち込みました。

マニラは「二ラ」という水草の群生地を意味する。スペイン帝国は1571年にマニラを武力占拠すると、鉄壁の防御力を誇る城郭都市の建設を始めた。無論、交易拠点としての整備である。パシッグ川とマニラ湾に面したマニラは理想的な立地だった。現在もイントラムロス (ラテン語で「壁の中」)または城壁都市と呼ばれる地区がそれにあたり、スペイン帝国の植民地だった時代のフィリピンの首都であり、城壁内に住むことを許されたのはスペインのエリートとメスティーソ(混血)だけで、夜になると市門が施錠された。現在も第二次世界停戦の爪痕とともに当時の面影を色濃く残している。なお、広大な外堀は現在は埋め立てられてゴルフコースとなっている。(Pedro Murillo Velarde, Nicolás de la Cruz Bagay and Francisco Suarez, Public domain, via Wikimedia Commons)

はじめの銀は日本産。

ポルトガルの船からは日本産の銀が持ち込まれました。彼らは修羅の国、戦国日本に高値で大量の銃火器を売りつけ、その代金として支払われた石見銀などの銀を積み込んで中国に向かい、当時の最高品質の絹や陶磁器を山のように仕入れては欧州に送って莫大な富を得ていました(南海貿易)。やがて日本が銃火器の内製化を進めたり、戦国動乱がおさまり武器の需要が減ると取引額は落ち着きますが、今度は彼らは徳川幕府による貿易の独占・管理政策の実働部隊として、日本の対外貿易を一手に背負って、高級生糸や舶来品を日本に持ち込んでは儲け、その利ざやで中国産品を仕入れては本国に送り続けました(南蛮貿易)。もちろん中国には胡椒もしっかり売りつけてました。抜かりはありませんでした。

「間歩」とは銀を採掘した坑道のこと。「龍源寺間歩」は1715年に開発された約600mの坑道で、一般公開されている唯一の間歩。内部はノミで掘った跡がそのままの状態で残っており、当時の作業の様子を知ることができる。(Naokijp, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

ところが、中国の市場には次第にスペインの船から積み下ろされる銀の量が異常な勢いで増えはじめ、銀が溢れるようになりました。

自らを南米大陸の支配者だと誤認したスペイン人が、南米の文化や人々を伐採・・し、一つの大陸の様々な文明を破壊し尽くし破滅に至らせた「強制改宗」が始まった影響です。

括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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